日記、メモ
由比良 倖

春の匂いが、頭の中を灼き尽くす。



2月14日(水)、
 夜、ヘッドホンで古い音楽を聴きながら、花片だらけの闇の中で、僕は書く。

 僕の頭の中には考えが不足していて、人生は分裂した森のようだ。いくつもの影が重なっている。魚も泳いでいる。綿雪が降ってくる。小さな、手のひらに乗るような稲妻が起きる。
 ドレーキップの窓。直列4気筒エンジン。ひとり遊び用のカードゲーム専門店。電線、どこまでも続く電線、永遠に続く日本語が命に触れるまで。月の光が眼に宿った種類の人たちが、頭の中の砂利道をどこまでも歩いていく。

 未明、もう少しで楽しくなれそうなのに、小さな病気を抱えているみたいな不快感が完全には消えてくれない。もう少しで至福の海にダイブできそうなのに、海面ぎりぎりのところでぶら下げられているみたいな。
 キーを打つ感触はまあまあ気持ちいい。

 夜遅く、詩を書く(『その位置: ゼロ』)。椎名林檎の歌を聴いていたら、妙に感動的になってしまった。音楽を聴かずに書いていたことなんてあっただろうか?



2月15日(木)、
 人は、依存しなきゃ生きていけない生物だ。感情や身体に。敵意や不安に。狭苦しい解放感。灰色、藍色。何処まで出かけても室内みたいな、表面が腐ったみたいに新鮮な、強いられた感動と自由。

 お酒を飲んで眠りたい。永遠に。警察に捕まらなければ何をしてもいい、なんて言う社会からは離れて。僕は歩く、栄養学的には悪いものを食べて、坂道を上っていく。誰も僕が死にゆく理由を知らないのに、僕には怒る相手がいない。全ては僕の心の産物に過ぎないというのなら、僕は一体、何を見ているのだろう? ナチュラル・ハイをずっと待っている。そのためにあらゆるものを捨てたくなるし、壊したくなる。僕は自分を否定したい。腐った牛乳を捨てるみたいに。肯定したい。死体を無表情に見るように。

 光。意味の無いものが好きだ。僕はAIと共存出来る。身体のいちいちに刻み込まれた自信の無さを、AIの、分解された言葉が埋めてくれるだろう。



2月16日(金)、
 今日も引き続き、日記に書くようなことは特に無い。両親が不仲で困る、ということを書いていたけれど、面白くないので消した。他には、何か散文詩みたいなことばかり書いている。

 元も子もある奇妙なズレの感覚。無価値なブランド品の数々。美しい気分のときは何だって美しいのに、気分が冷めると何もかもが醜くなる。僕は何処まで行っても幸福にはなれないけれど、ある一点を超えると途端に幸福になる。ある程度幸せ、という言葉は、本当のところは、僕にはあり得ない。不幸にはずんずん落ちていく。ある程度の不幸さと、絶望的な気持ちの間には断絶が無くて、あっという間に、すとんと死にたくなる。「もう駄目だ」には一瞬で辿り着く。

 僕にはパソコンとキーボードがあればいい。そしていつかは、それさえも捨てられればいい。ただ一点の今だけに集中していればいい。一瞬にして永遠の、そしていつも完璧に同一の今。

 血のにおい。木製の、分裂するハチミツみたいな機械。

 明日は晴れるらしい。鬱屈した気分が良くなってくれるといいのだけど。



2月17日(土)、
 僕、は、この小さな領域から出たくない。「そこ」はとても、広大だから。

 アゴタ・クリストフの『昨日』を読み終える。幻想的な描写と、透明感のある「希望の無さ」に満ちていて、165頁の短い本だけど、読み終えるのが勿体なくて、同じ箇所を何度も読み返しながら、一週間かけて読んだ。アゴタ・クリストフと言えば『悪童日記』三部作でかなり有名なのに、その次に書かれた『昨日』は日本では既に絶版だ。多くの読書家に読まれるべき本なので、再版して欲しいと思う。682円の文庫本を、僕は中古で533円(送料込み)で買った。とても綺麗な状態で届いたのだけど、物語の最終行の「。」の隣りに、パステルカラーっぽいオレンジ色のボールペンで、小さく「2022/7/19」と書かれていた。おそらくこの本の前の持ち主が、読了した日にちを書き込んだのだろう。女性らしい筆跡だけど、男性かもしれない。あるいは筆跡だけは可愛らしい、偏屈で生真面目なお爺さんかもしれない。書き込みをしている時点で、すぐに売るつもりは無かったのだろう。断捨離の際に多くの本と一緒に売ったのか、もしかしたら筆跡の可愛いお爺さんか誰かはもう死んでいて、遺品整理の為に売られたのかもしれない。本編とは違った意味で謎めいている。控えめな筆跡であることも含めて、良い種類の書き込みだと思った。

 本を読んだり、音楽を聴いていると思う。人が好き、そして人のいる世界が好きだと。

 僕はほぼ引き籠もっている。10歳の時から住んでいる子供部屋から、一歩外に出ることさえ滅多に無い。一日中ベッドの上で踞っている日もあれば、二日間ぶっ通しで椅子に座っていることもある。この間入院したときにそう言ったら、看護師の人に「部屋でどんなゲームをしているんですか?」と問われたので「ゲームはしません」と答えた。
 じゃあ一体何をしているんだろう?、と考えてみる。最近(多分半年間くらい)は寝ても覚めても音楽を聴いている。今日は朝からエイフェックス・ツインを聴いていた。ジェイムズ・ブレイクを流しながら眠りに就くのが好きだ。部屋の中ではなく、音楽の中が僕の住み家だから。夕食時は、両親と同じ空間にいなければならないこと以上に、音楽を聴けないことが苦痛だ。
 音楽を聴かないときは、ギターやピアノを弾いたり、歌ったりしている。もしくはたまに窓を開けて、外の音を聴きたくなるときもある。春には春の音がある。雲の音や風の音。雨の音は特別に好きだ。季節によって変わる鳥の声。人の声は不安になる。街宣車や移動販売の車の音は最悪だ。すぐに窓を閉めてヘッドホンを付ける。眼より耳を失うことが怖い。聴覚を失ったら、でも、そのときは沈黙の音を聴けるかもしれない。
 アニメや映画を見るときもある。ときどきYouTubeでギター関連の動画や、ライブ映像を見たりもするし、たまにつまらない動画を見てしまったりもする。それ以外は、ごくたまにネットで人と話すときも、友人が来たときも、ずっと音楽を流しているし、外出時にはイヤホンを付けている。さすがに診察時にはイヤホンを外すけれど。



2月18日(日)、
 やわらかい、水のような気持ちに辿り着きたい。

 今朝また音楽をいろいろ発掘しようと思って、二週間前にすごく好きになったミツキから繋がるミュージシャンを延々聴いていたら、何人目かで青葉市子の名前が出てきたので、久しぶりに聴いてみようと思った。以前、一度だけYouTubeで彼女のライブ映像を見たことがあって、でもそのときの印象は全然残っていなかった。なのであまり期待せずに聴いたのだけど、イントロの不思議な音選びがとても好みで、歌声がすうっと身体に馴染んできて、一番が終わるときには、すごい、天才だと思った。
 ほとんどの曲が、ギターの弾き語りなのだけど、どの曲にも独自の個性と、音の拡がりがある。
 ギターの伴奏が、とてもメロディアスだったり、歌の引き立て役に回って、とてもシンプルな単音弾きになったりして、聴いているとギターを弾きたくなった。何曲か聴いていると、不思議な気持ちになった。どの曲も、単純に明るい/暗いとは言えなくて、仄明るい世界を届けてくれる人だと感じた。
 以前彼女の歌を聴いたときは、おそらく音楽を聴いても何にも感じなかった時期で、ドラムが無いから入れない、とか、とても寂しいことを考えてスルーしたんじゃないかと思う。僕はまだ完全には回復していないと思うけれど、今は音楽からとても多くのものを受け取れるようになってきたと感じる。嬉しいし、それ以上に有り難い。

 心を空っぽにして耳を澄まさなければ感じ取れない、そのぎりぎりのところに、一番心に近い音があると思う。自己主張の音ではなく、心の震えのような音。そっと拾い上げなければ他の音に紛れて消えてしまう、心そのもののように不安定で不定形な音。その音は、詩の言葉みたいにとても儚いけれど、それ故にこそ、きちんと正確な場所を与えられたときには、とても強い力を持つ。
 青葉市子は、そんな音たちをひとつひとつ拾い上げては、あるべき場所にそっと流しているようだと思った。彼女の音楽の世界観は広々としているのに、隅々までひとつの色合いや心の流れで統一されていて、同時に、まるで僕自身の心を語ってくれているみたいな、個人的な種類の親しみ深さを感じる。その世界には、光と水と影が同時に含まれていて、柔らかでふんわりしているようにも聞こえるのに、同時にとてもくっきりとした彼女の心の確かさを感じる。
 ギターの音が景色だとしたら、彼女の声は、そこに吹く風や、鳥や、草や、動物や、悲しさや優しさ、生と死、などを率直に物語る、音楽の世界にずっと前から住んでいる語り部みたいだ。そして、物語りながら、全てに命を与え、聴き手にまっすぐ届いてくる風のようだと思う。そして、僕にとって(個人的に)大事なのは、彼女の音楽は幻想的なのに、その歌からは、生きていて、生活している彼女自身の声を感じるところだ。

 ……青葉市子の歌については、僕にとっての懐かしすぎる記憶について語っているみたいで、全然的確に書けない。僕の普段の生活の中では見えないものが、彼女の歌にはあるのだけど、それはもちろん、単純にギターと歌が上手ということとは殆ど関係が無い。ギターは半端じゃなく上手くて、とんでもなく練習したのだと思うし、歌声の美しさもまた、才能と努力に拠るものだと思うけれど、でもそれだけじゃない。とても失われやすくて、一番大事なのに、僕はすぐに忘れてしまう何かが、彼女の歌にはある。それだけ覚えていれば、他には何も要らないのに。



2月21日(水)、
 ヘッドホンがウォークマンに繋がっている。ヘッドホンを着けた僕は、音楽と繋がっている。ウォークマンはまた、コンセントに繋がっているので、僕は発電所とも繋がっている。辺境にある原子力発電所。元を辿れば核融合の産み出したエネルギーで、僕は今、音楽を聴いている。電気の中。ウォークマンの中の0と1。音楽に生かされている。
 音楽はいつも、現在時刻とは関係ない場所にある。バッハを聴いているからって、400年前に書かれたバッハの楽譜と繋がっているだけじゃない。僕は今、日本時間では、2024年2月21日の午前4時54分26秒にいるらしい。電波時計なので、おそらく秒単位で正確だ。けれど時刻は人間が、道具として便宜的に規定したものに過ぎない。本当は、今には時刻が無い。

 瞑想的な境地もいいんだけど、僕は社会的な感情が大好きだ。例え宇宙の全てを感じられても、そこに生活感情が欠けていたら、それだけで、大切な何かが抜け落ちていると感じる。それがたとえエゴイスティックで、ちっぽけな感情であっても構わない。この生きている現実の中で、きらきらしたものに出会いたい。

 苦しくてもいいから、答えを知りたいと思っていた。幼い頃から、長いこと。多分、最近まで。先月にもまだ、答えばかり探していた。だって、生まれてきて、生きてきて、答えを知らずに死ぬことなんて出来る?
 今は、少し考え方が変わっている。でも、具体的にどう変わったか書くには、今日は疲れすぎている。



*(2月16日の日記からの抜粋)
 ……でも、それにしても、もっとずっと大事なことがあるんだ。無私の心って、やっぱりあると思う。好きになれない理由を探す前に、さっさと人を好きになった方がいいと思う。少なくともその方が自分も生きやすい。お互いが自分だけに拘っていたら、愛し合っていたふたりでさえ、いずれは不倶戴天の敵同士になってしまう。かと言って、自分を殺してまで相手に尽くすと、見返りが少ない分、段々恨みがましい気持ちになってしまうし、それ以上に自分を見失う。

 例え家族同士でも、皆がひとりの時間を大切にして、お互いがお互いの時間を尊重し合うことがとても大切だと思う。そして、ひとりでいる時には、家族のことなんて一切考えないのが、一番いいんじゃないかと思う。誰かに言われたことも、されたことも、全部キャンセルできる時間があった方がいいと思う。ついでに、自分がどうだこうだということもデリートしてしまう。
 いつも生活や、他人や、自分のことを抱えていたら、重苦しいし、何も出来ないし、しんどくて、下手すれば自殺にまで追い込まれてしまう。キャンセルしてデリートしてフラットになった状態でも、まだ文句を言ったり書いたりしたいなら、書けばいいんじゃないかと思う。悪気はゼロでも、誰かに文句を言ってしまったらまた面倒になるので。
 フラットな状態だと、感情まかせの主観的な青みどろみたいな言葉は出てこなくて、例えまだ怒っているとしても、怒っている自分を観察している状態でいられるので、書いていると、気分が大分落ち着くんじゃないかと思う。多分、自分自身を意識している自分が、本当の自分なのだと思う。

 いつも「僕は駄目だ」とか言っている「僕」が消えたところに、本当の僕がある、というのは、僕の昔からの感慨だ。……とは分かっていても、「生活」や「他人」や「自分」という概念の呪縛ってとても強い。
 けれども、僕はいつまでも子供のままでいる訳にはいかないんだ。良い意味での子供らしさとか子供心ってあるけど、大人にはそれと同等に素晴らしい、自分を制御して意識的に変えられる能力がある。きちんと良い部分だけ大人になれたなら、きっと僕は、子供の時よりずっと楽しくなれるはず。
 人生で最高の時間が、もう過ぎ去ったなんて絶対に思いたくない。最高の時間、そして期間は、これから訪れると思ってる。


散文(批評随筆小説等) 日記、メモ Copyright 由比良 倖 2024-02-23 06:55:26
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