極私的朗読論冗説
室町

しかしそんなことが可能なのだろうか?
可能であると思っている人がいることがわたしには不可解であった
言語によって書かれた詩のことばを音声に変換して表現できるわけがないとおもっていたからだ。
象形文字である漢字「星」を発音[hòshí]と発声すれば象形の漢字文字「星」を朗読で表現したことになるかといえばそうではない。
あたりまえのはなしどれほど強弱をつけようと大声で怒鳴ろうと情感をこめて静かに語ろうとそれはもとの「星」ではない。発音記号[hòshí]の音声的バリエーションでしかない。
活字で書かれた詩は声に出された瞬間まったく別のものになる。

たとえば白いドレスを着た吉永小百合が瀟洒な花飾りの窓際に腰掛けて吉岡実の『四人の僧侶』を朗読したらどうだろう。
しかもわざと発音を曖昧にして意味を聞き取りづらくし 昼下がりの住宅街に流れるピアノの旋律のようにやさしく静かに語ればどうだろう。
これはもう『四人の僧侶』じゃなくなることは間違いない。

同じ詩を前衛舞踏家の土方巽が読んだらどうだろう。土方巽は一言も声を発せず舞台のそでから現れて反対側の舞台のそでへ15分かけてゆっくり歩いて消える。
これは苦行だ。中国の太極拳体操よりもっとゆるい動作である。素人が簡単にできる技ではない。だけど全身で無声を発しているのだ。
これを土方巽が吉岡実『四人の僧侶』の音声化つまり詩の朗読だといってもだれも
信じないだろう。

活字文字表現を声に移すということはただ単に文字についている発音記号を舌にのせる行為ではない。
たとえどれほど強弱をつけようとあるフレーズにおもいきり情感をこめようとそんなことはむしろ通俗でしかない。
内容も含めて全然別のものに転換しなければ漢字文字の詩を朗読(声に転換)したとはいえないとわたしは思っている。
大事なことはこの考え方の当否ではなくそれが面白いか否かだ。
忠実に再現することはたしかに受験競争でへんに脳みそが歪んでしまった現代人にとっては正しいことかもしれない。だが
わたしにはちっとも面白くない。そんな朗読をしていったい何がどうなるのか。

とはいえ詩が声としてあるときに限っていえば総ていまだ書かれざる即興吟遊詩として存在する。
本来そういうものが古代からの詩だった。
文字が発明されてからも特権階級以外の文盲庶民にとって詩は声として外部に放たれ
声として有名無名の人々に共有されるものであった。
しかし文字の発生と発展によって詩は貝殻のなかで奏でられる音楽のように閉じた意識のなかに存在し
かつ閉じた意識のあいだをワープする特異な沈黙の声として文字に刻まれるようになった。
声としての詩は最初から声として生まれた詩にのみ基本的には可能なのだが(あたりまえのことを書いてすまない)
「”活字表現された詩”の”朗読”」などということはそもそも最初から矛盾している。

わたしにいわせると「詩のボクシング」などは詩を辱める行為でしかなかった。
あんな見苦しく愚かな興行のせいで現代詩は大衆から誤解されますます遠ざけられたとわたしはおもっている。詩の面白さを宣伝するどころか詩がいかにつまらないかという誤解を広めてしまった。

では書かれた詩のことばを朗読によって表現する行為は絶対不可能なのだろうか。
非常にむつかしいけれど不可能ではないとおもう。
またそれが出来たとすれば必ず大衆の関心を惹くだろうし現代詩のもつ新しい可能性に陽があたるときだと思われる。
ただし
現代詩の朗読といっても朗読という形式による詩の再表現であるから詩の内容はすべて変えられなければならない。

そこでまず強調したいのは目の前に聴衆がいるということだ。
生身の人間が目の前に存在している。だのにせっかく詩を朗読しながらまるで間に壁があるかのように決してかれらを見ようとしないでメモを見ながら語る人が多い。
本来相容れないものである。
閉ざされた意識空間にあるものを開かれた意識空間のものに転化する行為。それを
”詩の朗読”というのだが
資生堂現代詩花椿賞授賞式で女優の杏が受賞した詩をピアノの伴奏入りで朗読する。あれは”詩の朗読”ではなく”ただの朗読”である。
退屈この上ない。まったくの欺瞞である。閉ざされた意識空間で息するものを開かれた意識空間に移動すればその瞬間詩は死滅する。
そうさせないために詩人はここで徹底的な探求を必要とし次元のあいだをくぐりぬけるために思想の迷路を解き明かさなくてはならない。
そのための思考の冒険に出ていかなければならない。
大事なことは象形文字で表現された詩のことばの感じをいかに音声に転換するかその発想と技量だ。

次に指摘したいのは詩の朗読は朗読するのが人間でありその全存在が表現の素材であることだ。
声のメリハリやリズムテンポなど二の次である。役者じゃないのだ。声優じゃないのである。詩人だ。
声に情感をこめて詩表現を音声転換しようとすると必ず失敗する。なぜならそれは文字言語としての詩を単に韻律のついた音標文字に変えるだけのことで”ただの朗
読”と呼ばれるもっとも簡略な非詩的態度だからだ。
詩の朗読に情感なんかこめる方法は一番安易だ。(なんらかの戦略があれば情感をこめてもいいが)
詩のボクシングなどはそういう人ばっかりが集まってやっていた。仲間内で閉じていればそれなりにうちわの遊びとしては結構だけどテレビに興行として出すにはあまりにお粗末だった。
これが詩の朗読か! というものはひとつもなかった。ちょっと機転の利いたやつの小賢しいパフォーマンスだけが目立った。

むかし同志社大学ラグビーが全国に名を馳せていたころチームリーダーにIというフォワードの選手がいた。ナンバー8だったとおもう。わたしは同志社大学ラグビー部の熱烈を越えた異常なファンでその試合がたとえ他校との練習試合でも新幹線に乗って見に行ったほどだ。だから同志社ラグビーのことなら何でも詳しい。この方は卒業するとラグビーの名門サントリーに入社した。
まさかの偶然だがわたしは新宿西口の場末にある小さなバーで彼と出会った。
I氏はサントリーに入社したばかりで現場の営業に回されていたらしい。お得意さまのひとつであるその酒場にも挨拶に来た。
がやがやといつもにぎわっている奥行きの深いカウンターがあるバーだった。
突然ドアが開いて「いつもお世話になっております。この度サントリーの営業部に入ったIです」というかしこまった声が聴こえて客が何事かと一斉にドアのほうを向いたときだった。「きょうはとりあえずご挨拶がわりに.......」
といってあの真面目なI氏がズボンをずり下げて下半身をスッポンポンにさらしてしまった。そうして一礼したのだ。もちろん一瞬のことだったが客たちはその洒脱な挨拶に大喝采していた。わたしもさすが同志社と目を丸くした。
みなさんこのようなものが”詩の朗読”なんです。
いや。それただの身体的パフォーマンスじゃないですかという方がいるだろう。
わたしがいってるのはパフォーマンスのことじゃない。発想の転換や心意気のことをいっている。
現代においてかしこまった挨拶と名刺や酒つまみのセットなどを置いていく事が新任挨拶としてどれほど無難なものであるかは知っている。
でもそれじゃちっとも面白くない。
こういうものが理解されなければいまの詩の朗読なんか自己中が自己愛的に寄り合って称賛しあっているカルト的なキモい集団としか世間にはみえないですよ。
大事なことはいつも面白いことを考えているかどうか。「正しいこと」や「仲間内に受ける」ことなどどうでもいい。
そしていつも面白いことを考えていてもだれも反応しないこともまたいまどきの文学世界の歴然たる事実なのだがこの世界では今やもっとも退屈なことを面白く思っているのだろうか。
それではいつまでたっても卵に亀裂は入らない。




散文(批評随筆小説等) 極私的朗読論冗説 Copyright 室町 2023-07-31 09:19:36
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