ろくでもなかった親父の思い出
室町

日本人は全員人殺しだというと
そんなもの戦争だからしょうがないでしょという
反論が返ってくる。
国家権力にだれが抗えるというのか。ふざけるな。
それに 愛するものを守るためには銃をとってあたりまえだ。
あなたは家族や子どもを守れないのか。
そういう意見もあるでしょう。
でも兵役を拒否して刑務所に入った人もいるのです。
わたしの親父はろくでもないクズでしたが
死ぬのが怖かったのでしょうか理由は知りませんが
兵役を拒否して京都山科刑務所に収監されました。
戦前の刑務所というのは人権などありませんからこれは
死を覚悟しなければできない行為です。
まして兵役拒否というのは非国民ですから
わたしの親父は何度も看守に逆らって懲罰をくらった
らしく当時の刑務所の懲罰がどんなものであったか
話してくれました。
何日も小さな樽の中に詰め込まれたといいます。
目の位置に小さな穴だけがくり抜かれた樽に一週間も
かがんでいると
なかには一時的に発狂するものも出たということでした。
戦争が終わると進駐軍がやってきて思想犯の親父は即時解放された
のですがそのあとが悪い。
わたしの祖父は奈良の人で盥(たらい)や笊(ざる)などを細々と
つくって生活を成り立たせていたしがない職人でしたから
刑務所を出た非国民の親父を面倒みることなどできない。
仕方なくのちに広域暴力団に指定される会津小鉄会に入り
三代目総長図越利一と兄弟盃を交わすのです。
図越利一とは刑務所で出会ったのかもしれません。
わたしの親父というのは小太りのチビでヤクザの
威厳も人間としての度量もまったく感じられませんでした。
どうしてこんなチンケな男が一家をかまえて
当時「白(シロ)」と呼ばれた貴重な石鹸を京都の路上で
独占的に一手販売できたのか。
毎日ドラム缶に売上の札束を足で踏んで入れていたと
親父は笑って豪語していましたがほんとうかどうか知りません。
母の話ではそういうときもあったということでした。
最後には組内の勢力争いに敗れて破門され母とも分かれて
その余波でわたしは孤児院に棄てられます。
親父の子分だった男たちは散り散りになりましたが多くは
板前や寿司職人になっていました。
中学を卒業したわたしが板前修業のつもりで京都にある鶴清
という京都最大の割烹旅館に入って頑張ろうとしても
「あんたKさんの息子さんか」と尋ねる板前がおりそうですと
答えるとそれからもうだれも口を利いてくれない。
それまで手取り足取り教えてくれた板前さんたちが皆わたしを
敬遠する。親父はいったいどんな悪いことをしでかしてきたのか。
仕方なくわたしは東京に出ていくことになります。
ろくでもない父親であり最低のクズ親父でしたがたとえ
どんな理由があったとしても兵役を拒否してむしろ獄死を
覚悟したことが(たとえ非国民といわれようと)
唯一わたしがこの親父を思い出すときに胸を張れる思い出です。
まあたいしたことではないかもしれませんが
もちろんわたしも戦争にでもなれば親父を見習ってそういう生き方
を貫くつもりです。もう赤紙が来るような年齢ではないですが。
いまの朝日文化人辺見庸や内田樹 宮台真司らとそれにつながる自称詩人や
自称批評家たちがその時になってどういう態度をとるか今から愉しみにしています。
というかその時はもう来ているし彼らがとっている態度も
世界中に殺戮をばらまいてきた米民主党ネオコンを背後であやつるグローバリスト
(全体主義者)の思想的パシリのようなものであることは明白になっているのですが。
嗤うしかありません。
なんせウクライナ戦争をまさかプーチンのせいにしているのだから
どれだけ世界認識にかけているかどれほど思想が偏向しているかどれほど戦後の
G7体制に洗脳されているか明らかでもはや
楽しみも何もないのが正直な絶望的現状です。


散文(批評随筆小説等) ろくでもなかった親父の思い出 Copyright 室町 2023-08-02 05:30:03
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