【家庭の詩学】 #3 感動はどこから来るか
043BLUE


「童心というのは、人間はみんな平等だという心ですね。白人の子も黒人の子も、小さいときはいっしょになって遊んでいる。決して差別しない。いやがらない。童心というのは、ものを知らない、ということじゃないですね。ものを一番知っている心ですよ。人間が平等であるということを知っているというのは、一番大きな事を知っているということでしょ。」    住井すゑ



○感動はどこから来るか

  前回は詩とは「頭」を使って「理解」するものではなく、言語認識における「5感」を使って「経験・体感」するものであるということを学びましたね。しかし、この「経験」には、個人差がある。同じ作品を読んでも、「感動できる人」と「できない人」がいる。それはちょうど、同じ料理を食べても「好み」が分かれるようなものだということも考えましたね。では、この「好み」って一体何なのでしょうか?

  オヤジ:「人間ってのはな〜、結局、子供の頃に食ったものが基本になってんだよ。「おふくろの味」とか「おばあちゃんの味」とかってあるだろ?一流シェフのフランス料理も芸術品かもしれんが、俺に言わせりゃ、おふくろの「肉じゃが」の方がよっぽど「感動的」だ。おばあちゃんの「きんぴらごぼう」なんてありゃ芸術品だな。味付けの濃い薄いも、味噌汁の味も、最初に覚えた味が「好み」の基本になってるってことだ。つまり、おふくろの数だけ、「感動」の数もあるってことじゃねーのか?」(*このシリーズでたびたび登場するオヤジについての解説は【家庭の詩学】まえがき にあります。)

   詩における「感動」も、読者が幼年から培ってきた「感受性」によって多様に発生するのだろうか。確かに、ぼくらは「言葉」を身に着けるずっと前から、この「感受性」という感覚を身に着けていた。子供というのはある意味「感受性」のかたまりだ。「理性的」にものごとを理解・判断したりするよりも、ほぼ「直感的」に生きている。その分、子供は「雰囲気」や「空気の違い」など、「言葉」では説明しにくいものまで驚くほど敏感に感じ取り、大人を「ハッ」とさせることがある。大人が世界を「言葉」で捉えているのに対し、子供は世界を「感受性」で捉えている。ある子供が、傘について「これは、雨の音を大きく聞くことのできる装置です。」と言っていたとどこかで聞いたことがある。小さな子供と一緒にいると、このような「驚き」をほぼ毎日経験する。このような、子供の「世界の捉え方」を聞くと、大人がいかに「ステレオタイプの言語世界」の中で生きているかを思い知らされる。

   オヤジ:「バカやろー!てめ〜だって、誰だって子供だった頃があるんだよ。でもなぁ、大人が子供に余計なこと教えるから、先入観ばっかりの、頭でっかちな子供だか大人だかわからね〜よな連中が増えてゆくんだよ。」

   確かに、詩作においてこの「先入観」というのはとても邪魔になる。一旦「コトバ」というものを捨て、感受性によって世界を捉えなおし、その感覚的な世界を再び「コトバ」によって再構築するというのが詩を作るという行為の本質なのだろうか。#2で考えたように、もしこの「感受性」「感覚」を強めることができるなら、たとえ「知性」でわからないことであっても、「直感的」に分かることができる。上記、住井すゑの言葉は、その事を言っているように思われる。(住井すゑは人間の平等と尊厳を一貫して訴えてきた作家・思想家である。)ぼくたちは、「知性」で知り得ること以上の、究極的な「真実」を、詩的「体験」を通して得ようとしているのかもしれない。それは、ぼくたちに「感動」いや「衝撃」を呼び起こす。

   ここでもう一度#2で引用した小林氏の言葉を洞察してみよう。
「それぞれのエクリチュールにおいて問題になっているのは、それぞれある固有のコドモの誕生なのだと。どのようなエクリチュールも、最終的には、言葉を知らない、コトバ以前の感覚的な、感性的な存在を、コトバによって、ということは同時に法によって貫かれた倫理的世界へと、――ある決定的な痛みや外傷を通じて誕生させるという企図なのだと考えなければならない。」その存在は「コトバをしらない<infanntia>の状態から、語ることを余儀なくされ、自分に先立つ法に従うことを余儀なくされ、そうして表象へと運命づけられている言語=世界へと絶えず失敗しながら誕生しようとする。」   小林 康夫 「表象の光学」より 

 
   難解な文章だが、よーするに、「コトバで説明できないことをコトバで表象するという矛盾を突破しようとする」ってことがいいたいんじゃないかと思う。それがもしできたとすれば、それはもはや「コトバを超えたコトバ」だ、そこから誕生した「コドモ」こそ「詩」なのだろう。
     
   「詩は言葉以上の言葉である。」  萩原朔太郎


  そして、そのことを無意識のうちに行なっていたのが幼年期であった。子供の頃ぼくたちはコトバを超えた世界に棲んでいた。その頃ぼくたちは世界をどう捉え、どう味わっていたのだろうか?いずれにしても、その時のぼくたちが、からだ全体で味わったものこそ「おふくろの味」なのだろう。大人はもう味わえないのか?いや、「詩人」は「知性」と「感性」を連動させ、「ステレオタイプ的な言語世界を捨て去り」、もう一度、この「世界を捉えな直さなければならない」、そうやはり「コトバ」によって。ぼくらは知的感受性における「おふくろの味」を求めつづける。それこそ「真実」だ。そこに、「感動」と「衝撃」はきっとあるのだろう。。。今回もあいかわらず、まとまりのない文章になってしまった。。。こんな感じで、次回は、この「おふくろの味」をどうやって「作り出せる」のだろうか、というようなことを考えてみたい。



【家庭の詩学】 シリーズ

まえがき
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#1 詩とはなにか
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#2 わかるということ
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#3 感動はどこから来るか
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#4「味*素」のはなし
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#5 「エス」のはなし
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散文(批評随筆小説等) 【家庭の詩学】 #3 感動はどこから来るか Copyright 043BLUE 2005-04-11 21:37:27
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