【家庭の詩学】 #2 わかるということ
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「どのようなエクリチュールも、最終的には、言葉を知らない、コトバ以前の感覚的な、感性的な存在を、コトバによって、ということは同時に法によって貫かれた倫理的な世界へと、〜ある決定的な痛みや外傷を通じて誕生させるという企図なのだと考えなければならない。」  小林 康夫 「表象の光学」より



○ わかるということ

  さて前回「詩とはなにか」について考えました。そして、それは「経験」を通して体感するしかないということも学びましたね。しかし、この「経験」って具体的にどういう感覚のことをいうのでしょう?

  オヤジ*:「そりゃ〜こういうことじゃね〜か?料理番組あるだろ?うまそ〜なもの食ってやがるヤツのコメントが全然意味分かんね〜んだよ。ただ、「おいし〜い!」「なんにも言えないですね!」って・・・・おいしい事くらい分かってんだよ!どうおいしいんだよ!説明しろよっ!で、説明されても結局全然分からん訳だ。自分が食ったことあるものなら大体想像つくが、全く食ったことのない食材の味の説明されても、全く見当がつかね〜だろ?結局、食ってみなきゃわかんないんだよ。「経験」って言うのはそういうことだろ?」。( *このシリーズでたびたび登場するオヤジについての解説は【家庭の詩学】まえがき にあります。)

  言葉で「味」を説明されても「わからない」。つまり、「味」というものは「頭」で理解するものではなく「味覚」「臭覚」「視覚」「触覚」などの「感覚」を総合的に働かせて「分かるもの」だからだ。詩は確かに「言葉」で構成されているが、そこには、並んでいる言葉以上のもの(感覚的・感性的なもの)が確かに「存在」しているのだ。その「存在」を言葉で証明することはもはや不可能であり、いや、それをあえて「言葉」によって超えようとするが「詩」なのだろう。しかし、その「詩」は「アタマ」だけで認知できるものではなく、もっと「言語認識における味覚・臭覚・視覚・触覚などの感覚」を総合的に働かせて「体験」する「世界」なのだと言えるのだと思う。 この場合の「感覚」とは「感性と知性を連動させたような感覚」であると思う。その世界では、必ずしも「論理」や「理屈」を必要としないから(特に頭の悪いぼくのような人にとっては)、「直感」や「勘」という「感覚」による認知も可能だ。(というか、その方が合理的であると思う。直感系としては。)どちらにしても、作者から読者への精神的なコミュニケーションが図られるためには、こうした読者の側の言語的な「感受性」に頼らざるを得ない。

  この「存在」に対する「認知と確信」は、一種の「信仰」だといっても大げさではないと思う。直感系詩人はどうもここらへんの「感覚」に頼って読んだり書いたりしているのではないかと思う。(少なくとも自分自身は) この「感覚」はある意味「絶対的真実」だ。その「経験」は、紛れもない「真理」だ。口に入れたものが何か、あるいはどう調理されたのかが「頭で」わからなくても、「美味いものは美味しいのだ」。一方、頭での認知は絶対的ではない、「体験」によって覆されることがあるからだ。おいしそうに見えても、食べてみたらまずかった・・・・・みたいな。この「絶対的な感覚」に頼るとすると・・・・・詩を読む→頭で「わからない」→でも「感動した!」が可能なのだ。もしくは、詩を読む→頭で「わかる」→でも「べつに感動しない。」こともある。その他のバリエーションももちろんある。

  あー・・・・うまく説明できない!!「感覚的」なものを「言葉」で説明しようとするのはやっぱり難しい。それを「理論」で説明できてしまうのが「詩学」なのだろうか??(くいしんぼうバンザイみたいだな・・。)なんとなくどういうことが言いたいか分かっていただいたでしょうか?これを読んでくれている、直感系の方は「感覚」でだいたい分かってくれたと信じております。THANK YOU!

  オヤジ:「なにを、ゴチャゴチャ言って、勝手にお礼まで言ってやがるんだよっ!理屈じゃね〜んだ。うまいもんはうまい、まずいものはまずい、ただそれだけのことじゃね〜か?よく、料理評論家だかなんだかしらね〜が、ウンチクたれながら食ってやがるヤツがいるが、料理は頭で食うもんじゃね〜んだ!って言いたいね。結局食ってみなきゃ分かんねーんだよ。」

  ちょっと、待ってくださいよ。同じ料理を食べても100人が100人おいしいと思うわけではない。(絶対的にマズイ料理は確かにあると思うんですが。)「好み」で分かれる部分もあるとおもうんです。その場合、別にその料理がダメだといっているわけではなく、料理としてはよくできていると思うが「自分」は「感動」するほどおいしいとは思わないというような事もあると思うのです。つまり、詩としてうまく書けている、キレイな詩だと思う、でもべつに「感動」するほどではない。こうなってくると、これは、その詩に問題があるというよりも、「感覚の違い」「好み」の問題になってくると思うのです。つまり、この「経験」「体験」というのは、極めて「個人的な体験」なのではないだろうか?しかし、同時にそれは「作者の体験」との「知的・精神的なコミュニケーション」が取れた瞬間でもあると思うのだ。という訳で、また中途半端なまま、次回はこのあたり・・・を探っていきたいと思う。

※今回は「読む側」のスタンスで考えましたが、「作る側」のスタンスついては、今後シリーズの中で取り上げたいと思います。

【家庭の詩学】シリーズ

まえがき
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=35278

#1 詩とはなにか
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=35395

#2 わかるということ
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=35467

#3 感動はどこから来るか
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=35587

#4「味*素」のはなし
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=35654

#5 「エス」のはなし
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=35811





散文(批評随筆小説等) 【家庭の詩学】 #2 わかるということ Copyright 043BLUE 2005-04-10 11:15:19
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