「わたしはこう思う。詩にネットも活字も媒体の違いだけで、本質的な差はないと。」
(光冨郁埜『(5)ネットと活字媒体、詩の状況は刻々と変化していく。』http://mitsutomi.web.fc2.com/nethyou.html)
そんなわけねーだろが、
と思ったりしたので、
書く。
KETIPAです。
はじめに書いておくと、
おれはネット詩という呼び名はあまり好きではないし、
紙媒体で発表された作品が電子化されたらネット詩とどう区別するんや、
とか、
その逆もまた思うのです。
おれは「詩」をかなり広義にとるほうなので、
詩情らしきものが想起されれば、
言葉でなくても、
文字でなくても、
極端に言えばミスプリントによって生
まれた文字化けだって、
詩に見えれば詩だと思っています。
話は逸れるけど、
この間自然発生した文字化けプリントをたまたま見つけ、そ
れが詩そのものだったので、
集めて持って帰ってきました。
ちなみに以下です。
採集詩I
http://showryu.web.fc2.com/files/Saishu_shi_I.pdf
採集詩II
http://showryu.web.fc2.com/files/Saishu_shi_II.pdf
なおこれらの作品は、
持って帰ってきた紙をコピーしてトリミングして並べただけで、
一切手を加えていません。
つまりおれは作者ではなくただの編者で、
偶然の産物です。
もはや引用が引用でなくなるような
「!」(採集詩I)
の強度や、
「ヘハヘハ」(採集詩II)
の病的なリフレイン、
そして何よりネット詩に真似できない文字の重なりや配置まで、
これをどこかのコンピュータが出力したというのですから、
偶然のほうがよほど詩人だと思い知った次第です。
いつぞや「現代詩とマルコフ連鎖モンテカルロ法」(
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=205590&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D6252)
という
意味不明な散文を投稿したことがありますが、
プログラムが書いた、
詩のその先を行っている
「偶然詩」とでもいうべきものは、
詩に回収されていないだけで、
無数に生まれているのでしょう。
ずいぶん脇道にそれたけど、
こういうかなり辺縁部の詩、
少しでも詩の定義を狭めれば詩ではなくなる詩は、
ネット詩では生
まれない類のものと思っている。
これまでもおれの関心にあった現代詩の中には、
ネット詩的な手法では出てこない作品
――たとえば新国誠一の象形詩だったり、
萩原恭次郎『死刑宣告』だったり、
藤原安紀子『フォ ト ン』だったり、
多様な感動をもたらすものが含まれている。
だれ?
つうろ
(藤原安紀子『フォ ト ン』)
ためしに引用してみたものの、
この引用に何の意味もないことは言うまでもない。
この『フォ ト ン』28ページには、
ページ番号とこの6文字しか印字されていない。
それでいてこの詩情。
引用では死んでしまうこの詩情。
言葉の飛躍の面白さとかリズム感とか、
そんな次元をはるかに超えた、
異質なもの同士が決して混ざり合わずに、
しかも一つの空間に存在しているという快楽が得られる詩。
たっぷりの空白がある紙の上に、
ぽつりとのせられていなければ、
このことばたちは、
ここまでおれの心を揺さぶらなかっただろう。
ちなみにこの本では
「だれ?」
と
「つうろ」
は、
微妙にフォントが違う。
ネット詩でそういうきめ細かい創作ができないとは言わないけど、
ネットで詩を消費していると、
そういう発想や配慮はどんどん削がれていくように感じられる。
何を書くか、
言葉でどう表現するかに心を砕きすぎて、
表現効果を最大限発揮させるための見せ方へのこだわりは、
薄くなってしまうだろう。
組版的な制約によって表現の多様性が失われることは、
以前「パソコンは21世紀の恭次郎を堕胎させるか」(
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=203741&filter=usr&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D6252)
で書いたので繰り返さないけど、
ネット詩を考えるうえで、
キーボードや平たい液晶から言葉を紡ぐことの不自由さは意識しなければならない。
その不自由さがまた、
今のネット詩をネット詩たらしめている一つの要因であると考えている(後述)。
では逆に
ネット詩にしか表現できないものはあるのか
?
という話だけど、
結論をいうと何でも表現できると思う。
ただし、
今はまだ詩人がネットに使われていて、
表現の幅が広がっていないように見える。
ネット詩の作風の傾向、それは「ポップソング的構成」で、「詩的言語の乱用(またはセンスのない使い方)」だ。このネット詩特有のスタイルは、作品を書いたときに、前記の条件を満たしていれば、同じスタイルを是認するいわゆるネット詩人に評価される、という構造になっている。つまり、ネット詩の作品の限界は、ここにあり、同時に、このネット詩界隈でのみ評価される既存のスタイルを乗り越えなければ、ネット詩が紙媒体詩の作品に匹敵する可能性にはつながらないのだ。
(ネット詩の耐えられない軽さ/八柳李花 http://hihyosai.blog55.fc2.com/blog-entry-84.html)
この前半はあくまで「現在の」ネット詩の傾向であって、
本来ネット詩はもっと自由であっていい
と思うのだけど、
何でもしていいといわれると何もできなくなるのか、
不自由な縛りを暗黙のうちに採用しているかのように、
紋切り型のポップミュージックの再生産を、
いつまでもいつまでもいつまでも続けている。
心の平穏が乱されない平坦な画面の
易しい詩的言語に、
四畳半のくたびれた現実を投影してなぐさんでいる、
そんなようにしか見えてこないのです、
大部分は。
それはネットプリントを採用しようが、
PDFを駆使しようが、
紙媒体に出ていこうが、
詩人がそれに意識的でなければ、
すぐさま四畳半に引き戻される。
ピアノ線は細く空を掻いて
きっと、見失うために、夏をえらんだ
触れてはいけないと 触れてから知る
切れるでもなくただふるえたのは呼吸 さいごの
まちがえても、息をととのえれば
こわした場所から夕景は始まってゆく
「いつでもいちばん新しい風に居る、きみは」
(黒崎立体「愛」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=274426&filter=usr&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D10087)
ここはよく傷む 果実ほどの自然で
やわらかく、落とせばすぐにはじけるだろう
(ピアノは死のまねっこだよ スカーレットは恋のなまえ)
でたらめだけを言って、いもうとのように悲しまれたい
(黒崎立体「死にたくないけれど悲しまれたい」『終わりのはじまりVol.5』より)
ネット詩というのは本来とても恐ろしいものだとおれは思っていて、
インターネットなる無限増殖回路にひとたび組み込まれれば、
すべての、
ありとあらゆる鑑賞可能な対象を、
「ネット詩」に変質させてしまうことができる。
ネットプリントで発表された
黒崎立体「死にたくないけれど悲しまれたい」を
ここに引用したことで、
合わせて引用した「愛」とともに、
この詩の一部はネット詩に回収されたことになる。
とおれは思っている。
あるいはネット詩人であった作者の、
ネットから少しはみ出した作品が、
また画面に引きずりおろされて同列に並べられる、
こんなおそろしいことがあろうか。
モチーフも表現も、
そこに描かれた、
手触りのいい身近な詩的言語を、
ほんの少しだけ切断して、
さくっと切られた断面にぴりっとするような詩情を感じ取らせ、
四畳半の読み手の心を風のように撫ぜて、
余韻が消えていく。
その黒崎作品の繊細な手触りは、
現代詩フォーラムとネットプリント誌では、
ほんのわずかに差があった。
いうなれば、
一枚の葉と、
一枚の葉が精密に印刷された一枚の紙ほどの、
原材料は同じなのに違うものという、
違和感が確かにそこにはあったのだけれど、
せっかく差異化ができたというのに、
一枚の葉をスキャンしてネット詩にすると、
とても似たような手触りになってしまう。
それが、
惜しい。
それに抵抗するか、
逆にそれを利用するか、
ツールとしての可能性を極限まで使い倒すような、
そんな挑戦者が出てこないと、
ネット詩の多様性や進化は一向に進まない。
紙媒体では何十年もかけて考えられる限りの実験が試みられてきたからこそ、
言語芸術として一ジャンルを築けたのだろう。
ではネット詩だって、
あらゆるものを回収・同化し
平坦な白画面に同列に並べることができるその地平で、
そこでないと強度をもたない言葉・記号・その他を、
突き詰めていけば、
ポップソングではない旋律が聞こえてくるはずなのに。
ジャパニー
ズ
ロック
ミュー
ジック
の
アルバム
に
ありがち
な
シーク
レット
トラック
手前
の
6
分
強
に
わたる
(無音部)
にも
似た
沈
黙
が不快
だから
そんなランプで僕を見ないで
みないでよ
(竹村砂漠「アンドロイド」より URL消滅)
2009年ごろ現代詩フォーラムで活動し、すでに存在が抹消された竹村砂漠氏。
だけど誰かが、
(たとえばおれが)
ネット詩に回収すれば、
かの詩人は死ぬことも沈黙することも許されない。
いつの間にか0と1の砂漠のはざまに消滅するのも、
ネット詩の特徴だけども、
おれはそれにも抵抗して、
ほんのわずかな不協和音を鳴らす。
おれは、
砂漠を、
見るぞ。