パソコンは21世紀の恭次郎を堕胎させるか
KETIPA

写植技術が発達したことが、新国誠一のような象形詩が登場するきっかけの一つになったとされる。象形詩、あるいは視覚詩というのは、それこそ単語や文字を、大きさや角度も自由に変えて配置し、一つの詩画面を構成した作品だ。またそれより早く、萩原恭次郎も言葉やらなにやらをおそろしく自由に並べた詩集『死刑宣告』を刊行している。新国の『0音』が1966年、恭次郎の『死刑宣告』はそれより40年以上早い1925年。これも文字の角度を90度変えたり、実に衒うことなく文字や言葉が並んでいる。

ひるがえって今はどんな感じか。パーソナルコンピュータやケータイの全盛期である今は、こんなどこの誰が書いたかわからないような文章が、いつでもどこでもほぼタダで閲覧できる。当然もっと高いレベルの作品にさえも、手軽に触れることができる。なるほど技術革新というのは創作物のあり方を変えるのであるなあと、明治の文豪風の口調で言いたくなるところだ。


しかし、前二つの文章のつながりが変だということからもわかるように、詩を含む文学作品を創るに当たって、パソコンがもたらした技術の革新というのは、先に挙げたような伝達に関わる部分が中心で、あとはせいぜい、活字の印刷が個人単位で容易に出来るようになったということくらいだ。
あるいは、活字を出力するのが非常に手軽、かつ高速になったことも挙げられる。だからなんだか知らないが、文字はそこにあるのが当たり前、後はその文字の連なりにこめられた意味について議論されることがもっぱら、のように感じる。まずキーボード(あるいは携帯のボタン)で打ち込まれる文字ありき、作品はそれによって創る、というスタンスが非常に定着しつつあるように感じる。

これをどう受け止めるかは当然人によってまちまちだと思う。やっぱり手書きでないとうまく書けない、という人もいるだろうし、一方で手軽に効率よく文章を書けるということで、パソコンを中心に創作するという人も珍しくない筈だ。


これはつまり、より多くの人が均質な材料、均質な環境で創作を行っているということじゃないのか。しかも、電子的な技術によって材料は限定的になり、決まったラインに決まった文字を並べることしか出来ない。手法的にはより制限が強くなっている。一見、技術革新によって便利に自由に創作が出来るような雰囲気があるが、実際には造字することすらままならない(写植ならこれまでにない漢字を印刷することも可能だ)。だから個々の文学作品をパッと見たときの印象は、やはりあまりにも均質だ。ここは現代詩フォーラムだというのに、恭次郎の詩作品を引用することすら難しい。「ラスコーリニコフ」なんて画像じゃないと基本的に無理だ。


これと逆の現象が起きているのが音楽だ。パソコンより少し前にシンセサイザーが登場し、さらにパソコンの普及によって、ありとあらゆる音色をパソコン一台で再現することも出来るようになった。フルオーケストラを個人で持つことも可能だし、これまでどんな楽器からも鳴らなかった音だって、波形編集やらサンプリングやらで曲中に使うことが出来る。仮想シンガー初音ミクまでいる。それこそ、人間の方が音を使いこなし切れてないくらいなんじゃないかと思う。映像や絵画についても、似たようなことがいえる。


そりゃもちろん、音楽や他の芸術に比べて、文学は異質といえば異質だから、執筆環境の部分的な均質化はさして問題じゃないのかもしれない。でもそうやって、文字が意味を表すための記号としての機能に還元されていくと、どんどん新国や恭次郎のような試みが生じる余地が狭まってくるというか、そういう試みを今やることは無価値だというように捉えられてしまう素地が固まってきてしまうのではないかと感じている(ここはまたちゃんと書きたい)。文学者、詩人の中で。

多分、言葉を素材として用いる別分野の芸術家からは、野心的な言葉の芸術が生まれてくるように思う。ただし、詩人として言葉を(素材かつ文章として)自由に使える人は、もう出てこないような気がする。


1,2年前にちょっとした新国再評価があったけど、あれはものめずらしさだけで終わってしまうのかもしれない。個人的にはそれはもったいないと思う。


散文(批評随筆小説等) パソコンは21世紀の恭次郎を堕胎させるか Copyright KETIPA 2010-02-12 00:55:00
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