ふるさとを滅ぼされた難民、、、言葉の生まれる原風景へ(批評祭参加作)
石川和広

頭の中で、たくさんの想念やら妄念が不定形に流れ、いつものもやもやがはじまる。

他者の作品を、それらが、絡めとり、作品の体液を、吸い取ろうとする。
リトアニア生まれの、ある哲学者は、セックスを食べる行為の模倣だといったが、読むとき、ぼくは、ぼくのしつこいまでの食らいつき方に、疲れてしまうようになった。

昔は、こっそり、雑誌に載ってるものから、音楽、映画と様々なものに食らいついて、最近、現代詩手帳にまで原稿を送っていたものが古いダンボール箱に入っていた。ちょうど五年近く前、介護の仕事を始める前だった。大学を出て三年は、総計で一年も働いていない。履歴書には空欄だらけ。
やとってくれるはずも無い。何度も面接したのだが、顰蹙を買ったり、そんなことでは、社会に出れんぞと今は燃えた中座のもぎりの面接のとき、説教されたことも覚えている。たぶん、予感としては、ダメ人間になるための修行だったのだが。
家にいるのも怖くて、図書館で、ボーっとしたりして、その時、メモ帳3冊分に、哲学、エッセイ、自然科学、音楽批評、小説、文明論、子供の本、働く事への逃避と圧力の観念が、もう充ち満ちて、いつも忙しく、仕事どころではないぜい沢者だった.。

三日で陰気な海遊館の中でなく、外回りの清掃バイトを辞めたとき、親に告げず、なぜか、吉本隆明(詩人、批評家)の文句、「ぼくが真実を告げると、世界は崩壊する」(?)だったけ、そんな気持ちがした。モノ書きになりたいと想っていたようだ、他人事のようだが、
オヤジは働き者だったので、もうそんなこと考えること自体、自分の内部で禁じられていたわりに、ロッキングオンに何度か原稿を送り全て落ちた。

いつも、自分の原風景がかわらのようなところのような気がして、あそこは、いったい何処だろうと思う、坂口安吾は「文学のふるさと」といっているが、文学というより、戯作者という言葉が最近気になっている。河原乞食が、芝居者の呼び名だったから、堅気ではない、戯言が書くことの根源というか風景だろう。
ぺちゃくちゃしゃべり、謎めいた暗号。しかし、安吾にならっていうならば、そこには、放浪の民とも言え、検地の側、戸籍の側、国体の側からすると、住所不定のもの、というか、居所不定の難民めいたものが、選び取らなければならないので、というか、履歴書が
書けないものとして、現実との不定感、精神医学では境界例ともいい得る人間が、根拠とする孤独の原風景を書いてきたものが、これまでの詩人といえよう。

現実の位置する場所に、来歴の不明を対置することがどういうことになっていくかわからない。
僕は、その当時、梶井基次郎と、花田清輝が好きだった。いまも敬愛しているが、少し遠くなっている。
梶井は、詩でも散文とも呼べる不思議な規格外の書き手だ。ひどい躁鬱病と結核に苦しんでいたが、宇野千代によると、急にいなくなったりするが、けして内心を明かしたことがなくいつも飄々としていたらしい、大阪の人なので、
上方の上品さを持っていた人だと感じた。やはり、そんな減らず口が好きではないし、恥ずかしいのだ。
文学者にしては、体のがっしりした梶井は、結核の第3期に入っても、宇野には、元気に見えたらしい。というか、そこをださないのが、何らかの狂うほどの熱さを感じる。
実際、大阪で再会した梶井は、宇野に
「僕が死ぬとき、手を握ってくれますか?」といったそうだ。
僕は、宇野に恋心をうちあけず、気丈に彼女の前で振舞ったところに、宇野は後年済まない気持ちになったといったそうだが、彼の詩があり、得体の知れない死に、流されていく
遭難した自分をつなぎとめて欲しいという心を読み込む。しかし、結局、母に看取られ実家で亡くなった梶井は、その時、生きざるをえない現実に出る前の溝に、落ちて、その不穏の風景を書いていたようで、今、彼を読んでいた私の心境をある意味で批評しているかのようだ。

仕事をしてないことがバレタ日、父は呆然とした、その前、私は冬の雪降りつむ河原に
倒れこんで、もう逃げ場所が無いと思った。
精神科へ行きたいといったが、父は「病気ではない」と明言した。
ある意味で、彼の答えは正解だった。母の忠言もあり、いった精神科で私は何とも無いといわれた。
もう働くしかない、それで、いれてくれたのが、重度心身障害者グループホームの週二、三回の夜勤。

花田のことは、今回は疲れたので書かないが、そこは、花田の盟友、岡本太郎が見たピカソなんぞどうでも良くなるくらい、ふつーに、シュールな人物がシュールでない日常、シュール過ぎる日常を送る、正体不明な人たちに、僕らも素顔で接することしか出来ない、
あまりに、現実的な世界だった。しかし、生きることのむずかしさをまだ自分ごととして感じられず、それは、未だに大きな問題の影くらいしか見えていない。
花田は僕の生まれた年に死んだ、ある批評家である。

たぶん批評家は、目を見開いてみたために、目が壊れてしまい手探りでしかはじめられない、花田は小林秀雄に最初にゆった人だと思う。彼は安吾の晩年、安吾を涙もろい人だといった。落ちて死んだ小雀に涙するような。
それは、安吾が、空襲の中、もっと爆弾が落ちろといった言葉と意外な形で、つながっている気がする。ふるさとを滅ぼされた難民としての作家、、、、


散文(批評随筆小説等) ふるさとを滅ぼされた難民、、、言葉の生まれる原風景へ(批評祭参加作) Copyright 石川和広 2004-12-14 19:04:56
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