これほど美しい悲劇を見たことがない
クローバー

背中が痛い
言葉を押し込めすぎた
そう言うと、男はその場にしゃがみこんだ
医者は、風邪でしょう、と
カルテに、片手でドイツ語を走らせながら
すこし、体調を崩されて、体が重いのでしょう、と言った
処方は、青酸がよい、と男は言った
それは、医者に求めるものではありません、と医者は言った。

錆び付いた階段を上る、音がする
金属製の、重たい鍵を扉に差し込む
立ち上がれないほどの脱力
男は、布団に潜ると、潜水艦のように眠った
背中が、痛い。

シェイクスピアだったろうか
薔薇は、薔薇という名前が無くとも
美しさと香りは同じまま、
ということを、書いていたのは
しかし、名前がなければ、
いったい誰が薔薇であろう何かを見つけられるというのだろう
名もなき花を、呼ぶことなど、できはしない。
忘れられれば、無かったことになる
その場限りの、香りも色も。

そうして、読者が男を忘れた頃
人の形をした土くれから、棘のある茎がのび
一つの花を咲かせた
アパートの一室、小さなこたつのそば
敷きっぱなしの布団の上に。


自由詩 これほど美しい悲劇を見たことがない Copyright クローバー 2010-01-21 20:44:55
notebook Home 戻る  過去 未来