傷/回想
千月 話子

霧雨が止んだ午後
兄さんが里山へ 
野いちごを摘みに行こうと言った

空にはかすかな光り
濡れた緑が 濃い空気を吐き出して
後に続く僕の 切れ切れの息を
奪うように纏わり付いてきた

兄さんは時々後ろを振り返り
小さな気配を確認すると
また 走り出す

目の前の障害物を
軽々と飛び越える長い足の曲線は
雄鹿 に似ている

空気を切って走っているのか
草木は微微とも 動かない

僕はとっくに走るのを止めて
しなやかに走り去った獣を
小さな五感を使って探し出す

数メートル先の林の中から
キー と高い声で鳥が鳴く
もうすぐ そこから
激しい羽音を響かせて 
一斉に飛び立つのだろう

その中心で 兄さんは僕を待っているんだ
 さっさと野いちごを摘んで

踏みしめて沸き立つ緑の蒸すような匂いが
ある一線で甘い香りに変わる頃
目の前に 鈴なりの野いちごが
赤を主張して 目は釘付け

もうとっくに整った息をして
出迎えた兄さんは
手のひら一杯に乗せた 野いちごを
僕に差し出した

瑞々しい果実を口一杯に含むと
プツプツと弾けて
甘酸っぱい汁が
カラカラに乾いた喉を一瞬で潤した

子供は容赦なく食べる 口の端から零れようとも

兄さんは僕より少しばかり大人なので
弟の世話を焼くのだ 
 母さんのように

溢れて赤く濡れた口元を
親指で さっと拭って
気にせずペロッっと舐めて見せた
赤い染料の残る親指には 二本の傷跡
一昨日 進入禁止の有刺鉄線に触れて
ザックリ と切れた傷跡

子供の成長は早く
もうすでに かさぶたを作り始めている

僕は 混乱した
脳が錯覚して
また 傷を開かせてしまったと
泣いて 泣いて 
涙が止まらなくなった・・・・

暫く振りに風が ふっ と吹いて
暖かい感触が頭を撫でたので
僕の罪は 許されてのだろうか・・・と思った

兄さんは笑っていた
親指で涙を拭って見せた そこには
透明な水で洗われた
閉じかけの傷が二本並んでいる

僕らはいつも
すり傷を見知らぬうちに作ってしまう子供
冷たい水に肌を浸して
洗ってしまえば 傷はいつか消える

兄さんの傷は いつまでも跡を残したままだった

僕は 日々成長していくのに
柔らかく触れた
指の感触を まだ忘れられない

自分の親指を
跡が付くまで きつく噛んでみても
優しく諭す兄さんは
もう どこにも居ないんだ

どこにも・・・・・・・・・・。


自由詩 傷/回想 Copyright 千月 話子 2004-09-05 16:45:12
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