セルフ・マスキュリズムについての覚書
山田せばすちゃん

かつて俺は批評スレでのこんな文を書いていたのだった。(いやまだ現存してるけどさ)


http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=19252&from=listdoc

のっけからもう言っちゃおう、あーやだ。

何がやだといって、モデルオーディションという現場自体がやだ。
それってまるで奴隷市場みたいなもんでさ、売り場に並んだ奴隷たちがそれぞれの用途にどれほどふさわしいかを語らされるように、「モデルちゃん」たちは自らの「チャームポイント」について語っている/あるいは語らされているわけで、それは「商品」としての「モデルちゃん」たちには至極当たり前のことではあるのかもしれないけれど、その「商品」としての美点であるそれぞれの属性、つまりは「目がきれい」だとか、「天然ボケ」だとか「足」がきれいだとか言うのは、実は彼女たちが己が身に備えていると信じている、「女」として好ましいとされる属性で、その虚構性をいちいちこの詩の語り手はさも得意げに突っ込んで見せているわけだ。でも実はこの「チャームポイント」の持つ虚構性は、「モデルちゃん」たちが自らそう思い込んでいる、あるいは自らを商品にしてしまうことでそう言わされている、というだけの問題ではなく、それらの属性が「女」にふさわしいとされている事自体にあるのだけれど、狂言回したる語り手の彼女がその点にまで思いが至ってないことは明白だったりするのでそこで俺はがっかりしちゃうんだよなあ。

「チャームポイントは」「ふつうは調べたり、申告したりするもんじゃないんだ」というフレーズから、かろうじて彼女はチャームポイントを申告させるということ自体の虚構性に気がついているようには見えるのだけれど、そこから導き出されるのは「チャームポイントは見えないところにある」というつまんねー結論だけであって、つまりは「チャームポイントは外面ではなく内面なのだ」という、虚構性をさらに誤解して、内面という「見えないところ」に美徳を求める退屈な倫理に着地するところまでしか、彼女の考えは及ばない。及ばないからこそ、彼女は「上司」が自分に向けた質問に対して笑って答えてしまえるわけだ。

要はこの「彼女」は徹頭徹尾上司=「おっさん」の思考に自らをシンクロさせてしまってるわけだな。んでもって、自分がそうなっちゃってることに対して何も考えないくらいに鈍感なんだ。だからこそ、「足」が自信の「モデルちゃん」に(よし、見せて、付け根までね)なんて、てめえがいわれたら寒気がするであろうに違いないようなセクハラまがい、いやセクハラそのものでしかないような突込みができちゃうんだろう。んでもって平気でおっさんたちの品定めに参加ができて、「世の中はキビシイ」なんておっさんそのものの感想を漏らして、着地地点は「チャームポイントは見えないところ」だなんて、これまたおっさん好みの倫理性だ。

実は構成からいうと、「上司」が「ふいに」彼女のチャームポイントはどこだ?なんて聞いてきたときに、この詩はすごい展開をすることだってできたはずなんだ、と俺は思う。

たとえばこのシーンは、アウシュビッツの収容所でドイツ兵の下働きをさせられている小利口な(でも決して利口ではない)ユダヤ人が、ガス室に連れ込まれるユダヤ人たちを一列に並ばせて選別してる場に立ち会わされて、ドイツ兵があれこれと価値判断して「こいつはガス室」、「こいつは収容所」、「こいつは農場」とか選別したのをその通りに列を作って並ばせて、「「全員足踏み。前へ進め!」なんて号令かけた後でさ、さて今日も一仕事終わりましたね、なんていってドイツ兵にお愛想笑いかなんかして見せてるときに、「ふいに」当のドイツ兵から「お前も明日からあっちの列に並べよ」って言われたに等しいんだぜ?(かなり長いたとえになったけど、ごめん)

おっさんの思考にシンクロして、おっさんと同じ品定めに参加して、で最後の最後に「お前だって女じゃん?」って当のおっさんから突きつけられてやがんの、笑ってる場合じゃないでしょう?何で気がつかないんだろう?どうして自分は「モデルちゃん」(大体この「ちゃん」付けがすでにあれだよな、小馬鹿にした物言いだったりするよな)とは違う人種なんだって勝手に決めちゃうんだろう、同じ女なのに。

これがフェミニズムの間違った到達点である「女性にも男性並みの職権を」の帰結点なんだ、とか言うと、話が大きくなりすぎちゃうのかも知れないし、どっちにしたって彼女が鈍感であることには違いはなかったりするのだ、あーやだやだ。


睡蓮氏が語ろうとしているセルフ・マスキュリズムは80年代フェミニズムの中でも議論されてきたことであった。

>>フェミニズム内部の論争では、たとえばエコロジカル・フェミニズムを唱えた青木やよひにたいして、男性優位の文化イデオロギーに過ぎないとして激しい論戦を仕掛けた。いわゆるエコフェミ論争で、上野側の主張は『女は世界を救えるか』(1985)などにまとめられている。(Wikipedeia、「上野千鶴子」の記述欄より転載。)

上野らは、女性の地位向上・権利拡大を提唱する従来のフェミニズムが、ともすれば男性優位の社会構造の中で女性を男性化していこうとする志向を持つことに対し、男性優位の社会構造それ自体を批判して、オルタナティヴな社会のあり方を想定した、いわば「革命的フェミニスト」(社会の権力構造を変革しようとすることを「革命」と呼ぶならば)であり、その理論的武器が「ネオ・マルクス主義フェミニズム」だった。(上野自身は自らの理論的立脚点を旧来の社会主義女性解放=社会主義革命の成立と共にすべての差別はおのずから解消されるという迷妄、と区別するべく、ネオ・マルクス主義フェミニズムを自称していた。)ネオ・マルクス主義フェミニズムはイデオロギーとしてのマルクス主義ではなく、経済分析の手法としてのマルクス主義を援用することで、男性優位の社会構造の根幹が「市場化されない労働=労働力の再生産のための労働」である家事労働の成果を男性が独占的に簒奪している現状=「近代の産物としての家父長制」にある事を明らかにした。この社会構造=搾取−被搾取のもとで、男性の優位性は社会的に規範化され内面化する。そしてこの社会構造のもとで搾取される側を抜け出すには、規範を受容した上で搾取する側にまわるしかないのだ、その結果、俺がチアーヌ氏の詩を批評したときに書いた戯画的構図=「ラーゲリの小利口なユダヤ人」が生まれるのかもしれない。

>>鈴女
>>えっ…
>>そんなこ難しいことじゃなくて、たんなる「やっかみ」ですよ。
>>もうちょっと具体的に言うと「あなたにも隙があったんじゃない?」と言うことで女性として生きていく知恵が「あなたより私の方が上だわ」と誇示して悦に入りたい。
>>そんなところだと思います。
睡蓮氏の散文に対する鈴女氏のコメントはまさに「小利口なユダヤ人の戯画」そのもである。このコメントにおける「生きていく知恵」という言葉には「男性優位のこの社会で」という前提が隠されており、女性がこの前提に無自覚なまま「知恵を誇示して悦に入る」ことは自らを「権力的構造を内面化した被搾取者」であると宣言したことに他ならないからだ。


散文(批評随筆小説等) セルフ・マスキュリズムについての覚書 Copyright 山田せばすちゃん 2009-04-09 10:36:16
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