林檎愛好
木屋 亞万

 男はイヴを堪らなく愛していた。人類最初の女性に清純の輝きを見ていたのだろう。だが、イヴに近付きたいと日々願い続ける彼の願いが叶うことはなかった。自分がアダムであったなら、どれだけ幸福だったことだろう。アダムへの嫉妬と羨望の狭間で、男は自分をアダムと呼ぶようになった。
現代のアダム(自称)はイヴに対して盲目的な愛情を注いでいた。しかし奇跡などでは到底敵わぬ程に、イヴは触れられぬ存在であった。夜空の星に手を伸ばしたとして、あるいは努力を重ねその星の一つに接近できたとして、始めから星は手に入るような大きさではない。同じように、現代のアダムの努力はイヴには絶対に届かない。その距離は乙姫と彦星よりも遠く、その溝は天の川よりも深い。何よりイヴの心は現代の誰をも映し得ないという事実があった。それでも現代のアダムはそれを補って余りある愛に充ちていたのだ。

 現代のアダムはその有り余る愛で、一方的にイヴを包み込んでいった。そして彼はただ一つ、イヴの周辺にも存在し、彼の周りにも存在しているものに行き当たった。林檎だった。その結果イヴの物語を子々孫々に伝えている宗教には目もくれず、林檎に対して一直線の愛好を示すこととなった。こうして彼は、林檎をいつも持ち歩いては、丁寧にハンカチで磨き続けた。座っているときはいつも林檎を磨いていたし、立ち止まっているときもほとんどの場合、林檎を磨いていた。林檎を愛しそうに眺めては、彼のみがわかるタイミングでその果実を口にする。
その後も現代のアダムは林檎畑に赴き、赤く実った林檎をもぎ取っては、ハンカチで磨いていた。彼の持つ林檎はいつだって、赤く光っていたので、彼が果粉の着いた林檎を持っているところを誰も見たことがなかった。彼の左手にはいつも輝く林檎、右手には白いハンカチ。それは彼のトレードマークであり、もはや彼の一部でもあった。


 今更ではあるが、現代のアダムと私は友人関係にあった。その私が知る限りでは、彼は自分の先祖がアフリカにいた類人猿であることを嫌がった。彼は本当ならばイヴを始祖だと言いたかったのだろうが、それはイヴの伴侶になるという夢を否定することに繋がりかねない。だから彼はアダムと名乗っていながら、人類の起源の話をされることを嫌がった。彼を初めて知る者は、アダムという名を誤った方向へ掘り下げがちだが、彼はただアダムがイヴの夫であるという部分に着目しているだけなのだ。そのため彼は、イヴと関係のないアダムの話題は歯牙にもかけない様子だった。そのため自己紹介の途中にも関わらず、相手がアダムについて語り出すと、彼は林檎磨きに精を出し始めるのであった。私はそんな彼を見て、彼はオリジナルな現代のアダムなのだと深く納得したものだった。

 流石の私も彼が一際大きな林檎を目の前にして、欲情し始めた時には、その情熱に狂気を感じてしまった。服を淡々と脱ぎ去っていく様子に、アダムらしさはなく、人間の本能を鮮烈に感じた。私はこの時初めて、彼が林檎をもぐ瞬間を見たのである。それは男性が女性に行う愛撫そのものであった。私は彼のやり場のない愛情が、林檎に対して一心に注がれているのがわかった。彼はその愛情がイヴには全く届かぬことに、まるで気付いていないような幸福そうな顔をしていた。


 なぜ私が今、こんなにも彼の話をしているのか。不思議に思うかもしれない。理由は簡単なことだ。先日、彼が亡くなったのである。自分の齢も省みず、寝そべって林檎をかじったがために、林檎が喉に詰まってしまい、運悪く死んでしまったのだ。告別式で彼の親族は、彼が大好きだった林檎の花と果実を棺桶にたくさん納めていた。彼の姉は泣き崩れながら、彼が愛用していた白いハンカチを納めていた。私も大きく形の良い林檎を綺麗に磨いて納めた。それは彼が欲情するような上質な林檎であったと思っている。
 最後に皆様に勘違いしてもらいたくないのは、彼がただの林檎愛好家ではないということである。イヴを愛するがゆえに、林檎を愛した。林檎愛好こそが彼のささやかな、そして唯一の愛情を発露する方法だった。親族はそのことを忘れていたのか、あるいは知らなかったのか。告別式という場であるにも関わらず、遠回しに彼を林檎馬鹿扱いする者が多かった。私は彼らの態度に憤慨し、また悔しくもあった。そして私は、彼の崇高な愛好の誤解を解くために、彼への手向けも兼ねて、筆を取ったという次第である。

 これほどまでにイヴを愛した現代のアダムが無事に、イヴの世界にたどり着けるよう願ってやまない。


散文(批評随筆小説等) 林檎愛好 Copyright 木屋 亞万 2008-09-02 01:58:09
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