追伸
はらだまさる



ちょっと昨日の返事が言葉足らずだったような気がして。

「読み手の気持ちを考える」
 これはすごく大切なことで、やっぱりいつも大切な恋人や友人や家族に手紙を書くような姿勢であった方がいいと思います。ただ、このフォーラムもそうですが、大抵の文学作品のように言葉だけ、しかも活字だけの表現の場合、書き手及び読み手の感情や精神状態までは、絶対に読み取れない断絶があると思っています。これは悲しいことではなく、そういうものだと認識しています。
 普段、日常生活の中でぼくたちが接する言葉というのは、そこに相手の表情なり顔色とか声のトーン、声質、その言葉を発する前後の会話の流れとか間、タイミングとか、二人の関係性、周りの景色、季節、温度など、手紙なんかのように書かれた文字なら、その筆の力の入り具合とか、踊り方、書かれた紙の質感とか、そういう「言葉」それ以外の色んな要素を聞き手(読み手)が全身で感じ取ることができるけれど、文学作品としての、小説、散文、批評などの活字、及びここでいう詩というものついては、活字以外のそれらを感じ取ることがほとんど不可能だと断言しても構わないのではないでしょうか。
 少し話が極端になるけど、どんな人にとっても当たり障りのない優しい美しい言葉だけが詩であるのなら、人によっては、詩の世界が「狭くてつまらないもの」になってしまうんじゃないかと思います。たとえ、どんなに酷い罵りの言葉であったとしても、それがものすごい愛情のうえでなされる場合があるんだと思います。
 ぼくは今、三十二歳で結婚もしてますが、十代や二十代の頃に、それこそ、たくさんの言葉で傷ついて、それに負け続ける無力で弱い自分に苦しんでいました。だけど、傷つけられたことや、その傷ついた心がいけないとは、まったく思っていません。
 それは運良く、本当に殺傷能力のあるような恐ろしい言葉に出会わなかっただけだと煽られそうですが、今も生きているから云える言葉ですが、ぼく自身、過去に苦しくて自殺を考えなかったということはないし、胃潰瘍も、十二指腸潰瘍も、血便も、嘔吐も、自暴自棄も、自虐も、心の痛みに耐えられず、自分の身体をナイフで傷つけたこともあるし、本当に人を殺しそうになったことも、精神病院に通っていた時期もあります。どうしようもなく弱い、恥ずかしい人間でした。世界に、そして自分自身に絶望して、こんな世界から遠くへ逃げようと、必死で世界に責任を擦り付けて、唾を吐いて生きていました。才能のある人には「お前のそんな懺悔なんか読みたくもないんだよ」馬鹿にされるようなことだと、自分でも十分に理解していますが、それでも語らずにはおれません。

 「傷つく」というのは「生きる」というのに非常に良く似ていると思います。すばらしい、と感じる芸術作品というのは、音楽でも映画でも文学でも、その鑑賞者のこころを、何かしらの形で深く傷つけているんだと思います。ただ僕等が住む世の中では、悪質なものや悪質な感情によって、そのこころが傷つけられることがほとんどではないかと思います。それが悪質なものかどうかは実際のところ、やった本人以外、誰にもわからないんだと思います。そして、それをぼくらの一方的な判断で、悪質だと決め付けることも出来ないんではないかと思っています。そのことが、悪質なものの最も恐ろしい部分ではないかと考えます。
 その本人が強い愛情でもって、誰かを傷つけるのならそれはそうなんだろう、としか言いようがない。歪んだ愛情としての憎しみや、嫉妬などの感情を理性で抑えることが出来ると、ぼくは考えていますが、出来ないと考える人がいるのも理解しています。なので、こういう場合は、受動する側(文学の場なら、読み手)の選択、読み手の自由が尊重されなければいけないのだと思っています。
「読みたくない人の作品は、読まない。深く入りこまない。」
 それは自己管理、というかその読み手の精神状態によっても同じ作品を、春に鑑賞するのと冬に鑑賞するのとでは、感じ方が違うように、もし仮にある酷い文体の詩作品を読んでしまったとしても、もう少し長いスパン(十年とか二十年)で、その詩を捉えたらいいんじゃないかと思います。今は酷く傷つけられる言葉でも、ある人を励ますために強い愛情でもって書かれているものでもあるかも知れないので、それを全て否定する訳にはいかないと、ぼくは考えています。もし、誰かの作品に接して傷ついたのなら「何故その言葉で自分が傷ついたのか」という風に、そのことによって自分を深く見つめ直すきっかけになるんだと考えると、ただ傷つけられただけではなく、自分のためにもなるんじゃないかと思います。これは人間の可能性のひとつとしての考え方なので、間違っても正しいことを言っているのではないと思っています。しかしぼく自身、それを時と場合によって応用することがあることは、付け加えておきたいと思います。
 人それぞれ、色んな考え方、感じ方があるように、その時々によっても人の価値観や考え方、思想は移り変わります。そういった無常の中に生きるのが人間だと云ったのが誰だったのかは忘れましたが、人それぞれ、今現在の生き方にあった、感じ方、考え方があるはずです。その答えは、自分を深く見つめて、感じ、考えるより他ないのだと思っています。
 ついつい長い文章になってしまいましたが、この文章が貴方にとって少しでも役に立つものであればと願ってやみません。ぼく自身、いつでも人に優しくありたいと思っています。それを信じるのも信じないのも、茶番だと感じるのも感じないのも、それは読み手である貴方に委ねるより他ありません。あなたはあなたに嘘がつけませんから、あなたの感じたことがあなたにとって全てです。ただ、ここにある言葉は、あなたを傷つけたり、苦しめたりするつもりはないし、あなたから何かを奪おうとか、あなたと争いたいとか、あなたを支配したいとか思って描いた文字はひとつもないということを理解して欲しいのです。ぼくがぼくでしかないように、かれもかれでしかなく、あなたもあなたでしかありません。そうじゃなかったら、誰も詩なんて描かないはずでしょう?


 このフォーラムの場が、貴方にとって素敵な場所になりますように。


追伸、千文字を越えたのでこの場に投稿させてもらいました。あなたへのみの言葉のつもりでしたが、たくさんの人のことを考えている自分がいたので、作品に満たないものとして誰でもないあなたへ。



○はらだまさる○






未詩・独白 追伸 Copyright はらだまさる 2007-03-14 12:07:22
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