オリジナリティの範囲---片岡直子さんをダシにして/藤原 実
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 川村 透 
- いとう 
- 馬場 こういち 
- 片野晃司 
- ふるる 
読んだこともない昔の人の詩を読んで、自分の詩の中に全く同じ一節があるとびっくりしますが、同じ人間なのだから思うことが似通って当たり前とも思います。テーマや雰囲気は違うわけですし。
- みつべえ 
言葉自体がその契機を避けられずに孕んでいるということでしょう。私は剽窃ではなく、継承とか相続のようなものだと思いながら使っています。その場合未消化だともろに剽窃くさくなります(笑)

「剽窃家というのは、他人の養分を消化しきれなかった者の謂である。だから彼は、元の姿の認められるような作品を吐き出すのだ。つまりオジリナリテというのは、胃袋の問題でしかない。」ー吉本隆明「言語にとって美とはなにか」より引用。

- 岡部淳太郎 
- 安部行人 
- 佐々宝砂 
書き替え作家、剽窃詩人のひとりとして、ポイントを入れざるを得ません。私はしばしば未消化です。
- かおる 
- 「ま」の字 
 今私は、何度目か(何十度目か)の「自分は何を書きたいのか。書くべきなのか」探しをしているようです。今回のきっかけは、他人の書いたものを読んだこと。「こんな風なものを書きたい?」「こんな書き方をしたい?」と、人のものを読みながら考えている。オリジナリティーといっても、人を見ないと見えてこないのかもしれない。

 ところで、冒頭で引用されているサイトの文章。孔子の有名な「述べて作らず」を「コピーしてるんです」と単純に言うのはどうなのだろう。いや、おそらくは論を明快にするためのレトリックなのだろうが・・・。「解説(解釈)したが、ゼロから作ったわけではない」更には「発見だ。発見はゼロからの創造ではない」とか、そんな風なのかと感じる。個人的にはこの方が薀蓄深いように思う。

 引用文の中で「媒介」という言葉が出てくるが、個性というのは、結局は世界をどう表現するかの「触媒」あるいは「生ける関数」だろうか。極微なものであるにしても。

 まあ、いいか。

 私は曇天を見ている。私の見ている曇天は今のところ私にしか見えない。曇天から感じられる何事か、も私にしか感じられない、今のところは。どう表そうか。どのような形式を与えようか。 この曇天を作ったのは無論私ではない。 この曇天を書く(解釈する、発見する)のは無論私だ。

 う〜ん、結局ただのヒマ人のヒマ話かなあ。気取った文章すみません。

 追伸;最近読んだ言葉「“型”があって“型破り”ができる。“型”がなければ“型なし”だ」全面的に信用できるかは知らないが、穏当な見解だと思った。
- 萩原重太郎 
- 深水遊脚 

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