以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- - こたきひろし
- - フユナ
- - Lucy
- - 梅昆布茶
- - 大村 浩一
- - あおいみつる
- - 石村
- - もちはる
- - 健
- - 乾 加津也
- 甘え過ぎてしまった?
たもつさんらしくない(笑)
失礼しました
これは、新しい扉の予感です
- - 草野春心
- 面白い作品だと思います。言葉の肉体性みたいなものの外部として、「親戚のように」「黙る」「世界」があると。世界が黙るのは論理的にわかる。だが、それが親戚というかなり肉体っぽいものとつながっているのはなんなのか。奇妙と言えば奇妙である。しかしそもそもいま親戚ってものが何なのか、という問題。少し謎のようで、感覚としてはよくわかるというのがいいなという感想を持ちました。
- - はるな
- - 足立らどみ
- - 木葉 揺
- - 「ま」の字
- 私はどうも文字を額面通り読んでしまう癖があり、そのため初歩的なものであっても「暗喩」がなかなか分からない。だからたもつさんの詩も、その意味では分からない。言葉は肉体であるという。肉体とは実在性か。人間は(魂は)結局言葉に依存して終わるのか。言葉など実在ではないのに、人間における実効力ゆえに事実上の実在として機能するのか。 しかし「うまく喋る」「お言葉ですが」「「お」言葉」に皮肉の響きがある。実在感のない肉体が歩いている。新しい事態には新し言葉こそふさわしいのに去年のようにしゃべる。薄い言葉。薄い人物。か細い肉体がまちをゆく。しかし、特別な階段を歩いたりもする。いかに薄くとも人は人であり、肉体は肉体であり実在するものは実在する。彼にも実在であることの徴(しるし)はある。当たり前だ、ほとんどの場合そういう中途半端な存在が「人間」である。既成概念や紋切り型の思考などの決まりきったものと、そうでない何をしでかすか分からない部分とのあいまいな混濁として、多くの人は在る。 夜だ。 闇だ。 分からねえんだ! けれど彼は歩き、言葉は響く。彼は死人でも概念でもないからあたりまえだ。
てなことを、勝手に考えてみました。浅読み妄言の類です。しかしこんなことを勝手に考えるのも詩を読む側の楽しみ(なのかなあ)かもしれません。 すくなくとも、たもつさんの詩に訴求力あればこそ、読む力のない私でもこんなことを思わず考えてしまうわけです。 失礼します
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