作者より:
秋田の情報誌「Ag」という雑誌に、寄稿させていただいていたのですが、昨年末に、休刊となってしまいました。
「Googleマップの中の家」
これは、次号入稿するはずだった、幻の原稿です。
休刊ということもあり、この原稿は、お蔵入りにしようと思っていましたが「おしまいは、おしまい」ではなく、むしろ「おしまいは、はじまり」であるという、そのような考え方が、とても大切であるように思い、発表するに至りました。
生まれ故郷の家が代々続いてきたのは、続くことができる素地があったからで、多方面からの経済の進出により、それがいずれなくなることがわかれば、いっそのこと、潔く捨てて、新たなスタートを歩むことも、今後、子孫を代々残すには、大切なことである。
息子の名前は、私が、なんとなく、つけた名前ですが、名前とは、結果的に、つけられるべきして、つけられたものになりうるものだなと、われながら感じることも、時々あります。
よく、アメリカに移民となって、移住してきた、仮に「レイ・パーカー」さんがいたとしたら、その息子さんが「レイ・パーカー Jr」と、名乗ることがあるじゃないですか。
つまり、父が初代で暮らしはじめた見知らぬ地で、父の人生の続きを生きていることを、その息子は、名前によりあらわしているわけです。
しかし、それもまた、新たな「田舎」のはじまりでもある。
田舎というのは「選択の自由がない」ことが、なによりの不幸のはじまりとなっている。
反対に、あまりにも自由がありすぎて、あっち行ったり、こっち行ったりできることは、都会の不幸のはじまりとなっている。
これらの不幸の根源となっているのが、実は「家」というもので、代々続いてきた「家」にこだわれば「選択の自由がない」不幸がはじまり「家」がなければ「選択肢の多すぎる」不幸がはじまってしまう。
だとすれば「家」がない状態で「家」を意識する、そんな家族の気持ちのあり方が、一番、ちょうど良いのではないかと思います。
現代において、家がなくて不自由だということは、もはやなくて、家があることが不自由であるように、私には見えるのです。
家は見栄。
隣近所に、馬鹿にされたり、迷惑をかけないように、家のために、プライドを持って生きる。
これが「家の限界」だと思います。
マンションや、アパートで暮らすことが、あたりまえである街で暮らしていることは「家至上主義」だった、田舎の生まれ故郷にはなかった、身の丈に合う自由がある、ちょうど良い場所であると、いま感じています。
2015年7月21日