作者より:
読んでいただきありがとうございました。
松岡真弓さん、ポイントありがとうございました。
有希穂さん、ポイントありがとうございました。
芦沢 恵さん、ポイントありがとうございました。
殿上 童さん、ポイントありがとうございました。
ヒヤシンスさん、ポイントとコメントありがとうございました。
何かを感じてもらえたなら嬉しいです。
たけしさん、ポイントありがとうございました。
梅昆布茶さん、ポイントありがとうございました。
ichirouさん、ポイントありがとうございました。
beebeeさん、ポイントありがとうございました。
北大路京介さん、ポイントありがとうございました。
イナエさん、ポイントありがとうございました。
羽根さん、ポイントありがとうございました。
亘さん、ポイントありがとうございました。
竜野息吹さん、ポイントとコメントありがとうございました。
愛は人格から流れるものなので紙で書かれた聖書の中にあるのは「愛について」
の記述です。しかし神は愛であり書物である聖書の記述を通しても人に愛を注ぐ
ことは可能です。しかし愛の源である神に心を開かないなら、愛についてのただの
記述でしかない訳ですから思想的な影響力はあったとしても聖書が語る本来の、
人を生かし人を造りかえる力を伴った神の愛(アガぺー《与える愛、一方的な愛》)
がその人の内に溢れる訳ではありません。スイッチを入れても電源と繋がって
いない訳ですから・・・失礼しました。神学的になりました。
この詩のイメージは「ソドムのリンゴ」というものから得ています。
同名の物語があるようですが、それではなく単純に言うとある種の昆虫が植物に
作る虫瘤のことで、赤く小さなリンゴくらいの大きさになるそうです。ところが
それを手に取って割ってみるとそこからは灰のような(小さな虫なのか虫の糞か
不明ですが)ものが出てくるので、それが「ソドムのリンゴ」と呼ばれるそうです。
わたしはこの話を大好きなファーブル昆虫記の確か7巻で読み心に残っていました。
この詩のテーマは、愛し合っているつもりでありながら、実はただ互いを自己の欲求、
を満たすために繋がっていた二人を一見おいしそうで美しいリンゴのようでありながら
そこには甘さも喉を潤すものもなく砂漠が溢れている。そんなイメージで描きました。
そらの珊瑚さん、ポイントありがとうございました。
耳さん、ポイントありがとうございました。
砂木さん、ポイントとコメントありがとうございました。
とても興味深いです。その感じたことや解釈は決して間違っていないと思います。
書く側が考えたり思ったりしたことは意識の上の表層にすぎませんから。
泡沫恋歌さん、ポイントありがとうございました。
夏美かをるさん、ポイントありがとうございました。
陽向さん、ポイントありがとうございました。
---2014/07/14 21:51追記---
---2014/07/15 21:55追記---
---2014/07/16 19:53追記---
---2014/07/17 21:48追記---
---2014/07/18 22:17追記---
---2014/07/21 19:41追記---
---2014/07/22 20:16追記---
---2014/08/30 20:25追記---