詩の試みー知りすぎている貧しさの中で mixi日記より 2010.12.9/前田ふむふむ
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- ……とある蛙 
詩的言語と言う言葉がよく分からない。
言語の意味内容の他言語それ自体が詩の構成要素と考える場合の用語か?それとも詩に特有の言い回し的なものか?いずれにしても分からない。
- アラガイs 
お久しぶりです。こちらでの投稿を拝見しうれしく思っています。
「この薔薇は堅い」なんて拵え方は言葉として客観的にみれば即物的な冷たく固い印象にも受け止めることはできますが、主観的な現実として、寒さに閉じ込められた北極圏の温室に咲く薔薇として眺めてみれば「堅い」を「やさしい」或いは「寂しい」とも受け止めることは可能なわけで、死んだような言葉とは単純に受け止めることはできない、とわたしは考えます。
わたしが意識的に受け止める「死んだ言葉」とは、文字通り寧ろ呼吸されてはいない言葉の残骸で、いい悪いは別にしても文全体の中に於いてその脈拍の鼓動も、そこから沸き上がるエネルギーのゆらぎも相対的には感じられない。それを所謂詩情の持つ見えざる魂の力だと認識するならば、けっして目には触れることのできない魂を、言葉という文字を使い置き換えてみたときに享受された意識。つまり作者によって意識された言葉は、間接的にしろ我々のこころに直接伝わってはこないと云う、誰しもが感じるあたりまえな認識のことだとわたしは受け止めています。
時代の変化のなかで、芸術家は絶えず主体と客体のなかを繰り返し作品にその意識を投影させていきます。
意識は記憶され夢のように現れる。無意識は覚醒され現実を奪い去る。
果たして夢が芸術か、それとも社会が幻なのでしょうか。
生き物が有する意識とは常に見えない共感の力によって左右される。詩人や人間だけに限らず、生物自体その細胞のひとつひとつを辿っていくならば、意識はその境界のはざまで波のように伝わる大きな集積物のような気もします。

※追記。申し訳ない。解釈的に辻褄の合わない箇所→「この薔薇は堅い」主観的にみれば(やさしい)(寂しい)に直しています。


- そらの珊瑚 
確かに、日常言語に詩言語を持ち込んだら、うちのかあさん、ちょっとどうかしてるとか言われかねないし(笑い)日常はとまどうことでしょう。
だからそこで満たされないものを抱えたヒトは詩人になるのかしれません。そういう意味では貧しい(プアー)ではなくてハングリーなのかもと思います。
 
作者より:
・・・とある蛙さん、
読んでくださりありがとうございます。
詩的言語、は
そのまんま、読んで下さればよいのですが、
「死体」という言葉には、詩的なイメージ、メタファーが多く含意している
言葉である、という意味で詩的言語と言っています。
(正しいか、正しくないか別にして、私は、ここにおいてはそういう風に用いています。)
簡単に、考えて下さい、
でも、敢えて、理論的に言えば、(そんな風に難しく考えなくても良いのですが)
シロクフスキーの提唱した
「異化」のようなものの見方でしょうか。
詩的言語においては、一般的な言語においてより、
生々しい言語的な発見が含意しているということでしょうか。
また、ロシア・フォルマリズム全般とかヤコブソンを言い出したら、
大変なので、あとは、理論的に知りたければ、専門書を読んでみてくださいませ。
日本のものでは、
野村喜和夫 や 北川透などの詩論書が、わかりやすいかもしれません。

アラガイさん、
読んで下さりありがとうございます。
「薔薇は硬い」「死んだ言葉」の解釈、ユニークで大変共感いたしました。
そう考えると、
読み手にいかにして、書き手の詩情を伝えるかですね。
それだからこそ、決して相手に伝いにくいものを伝えるのは、詩を書く書き手の
腕であり,醍醐味でしょうか。

PIGGY IN THE MIRRORさん、
ありがとうございます。
そらの珊瑚さん、ありがとうございます。
仰っていること、的を得て妙ですね。^^

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