詩の試みー知りすぎている貧しさの中で mixi日記より 2010.12.9
前田ふむふむ

北川透がいっている、詩的レトリックの本質は違反である
それを引用的に言えば
僕は、現代詩の本質は、日常的な言葉への違反であると思っています。
(そうではないと思っている方も多くいると思いますが)
その違反の、現代詩の重要な構成要素となるのがメタファーであると思います。
ここでは、違反ということで書いていきます。
違反行為を行う場所から話しますが、現代詩が提示される、つまり社会です。
社会がそういう違反を成り立たせる土壌があれば、あればあるほど、現代詩は、多くの舞台が用意されていると思います。例えば、戦前の軍国主義の時代、戦後の荒廃とした時代、冷戦でイデオロギーが二分化された時代、そこには、毅然とした一義的で規範的な社会があり、現代詩は、いくらでも違反する言葉を使うことができたからです。
例えば、戦後の荒廃した時代に、暗い内向的な詩を書けば、それだけで、その時代を反映している比喩として見られて、その違反は、新鮮に読み手に伝わり、いくらでも詩人は、詩を書くことができたのです。

でも、冷戦が終結して、世界は陰鬱な恐怖から解放されて自由を得ましたが、現代詩は、世界から違反するものを見つけることが困難になっていったのではないでしょうか。
あらたに、もたらされた一義的な世界観は、世界のアメリカ化というグローバリズムでした。それは、膨大な情報、豊富で圧倒的な量の言葉をふくんで押し寄せたと思います。
それが、一面いかがわしいと知りつつも、膨大で多様な言葉に圧倒されているというのが
現実でしょうか。
言語が、言葉が、あふれている世界、僕たちは、その情報で、瞬時のうちに物事を
知りうることができるのです。そして、その多くの情報から、物事の良し悪し、また
別の考え方を、縦横無尽に手にすることができるのです。
なんと、便利な世の中なのでしょうか。
その中から、良心(語弊がある言葉ですが、大体、今の世の中、この当たり前の美しい言葉が陳腐です)に則って、多様性を獲得できる時代になったのだと思います。
でも、皮肉なことに、その豊富さと多様性は、あらゆる媒体を通して、相互に打ち消しあい、抽象的な意味を与えて、言葉を無力化して、言葉を相対化する方向にむかっているといえると思います。
だから、僕が「この薔薇は堅い」といっても、そんなものは、瞬時のうちに
色あせて、べつの角度からみれば嘘っぽいものになってしまうのです。
つまり、新しい言葉が、違反しても、膨大な情報社会は、自らの持つ価値の否定性で飲み込んでしまって、その情報社会がもつその情報自体も、別の情報に価値で否定されてしまう、混沌とした多様性の中にあり、安定性を求める社会が、急速な速さで、これは大衆的な一義性といっても良いかもしれませんが、逆に、多くの言葉を相対化してしまうということです。
当然のこととして、あまりにもあり過ぎるのです、あり過ぎるものの中から、
言葉は、次から次へと処理されて、振るいにかけられて、平面的になり、表面の肌触りが外見的に似てきていて、
差異は困難になり、
違反は限りなく少なくなり、いったい何を違反するのか、
違反という言葉すらも、相対化されて、いかがわしく説得力のない言葉に見えてしまいます。
現代詩は、どこに居場所を求めればよいのでしょうか、
瀬尾育生が、21世紀の若い詩人を定義して、「いかに差異化するかということに敏感であるところが共通である、としかいえないような同一性」といっているのです。この非情とも思える言葉には、若い詩人の苦労がわかるような気がします。

僕は、よく書きますが、萩原朔太郎の詩が好きです。朔太郎が口語詩を書いたとき、
メタファーの持ち駒は、ほとんど何もなかったと言われています。
仕方なく、音楽に、つまり音韻にその方法論を求めていましたが、
しかし、朔太郎は、当時の一義的な閉ざされた社会の、広大な肉体を持っていたと思うのです、
だから、いくらでも違反する場所はあり、いくらでも違反することができた、と言えると思います。

現在の、
僕たちは、無垢な肉体など、どこにもないと思っても良いと言えるでしょう。
僕たちは、多分初めて、人類が経験したことのない肉体を持ったのだと思います。
ここでは肉体とは、社会のことであり、詩人、例えば、僕との関係性のなかでの社会です。

でも、こうも考えられるのではないだろうか。

次から次へとあふれる言語と、その相対化を繰り返す社会。
だから、こういう時代だから、反復し続ける「存在」としての言葉を見つけることが、
いかに困難だからこそ、逆に、
社会における詩人の役割がなお一層、重要であるということではないでしょうか。

(演説みたいになってしまった)

なお、
「この薔薇は堅い」は、思いつきで書いたのですが、一見いいように思えたが、
なんかの広告かなんかのフレーズに使われたら、死んだ言葉です。
でも、死体にもなれない、
死体は、その存在から、詩的言語を持っているからです。



散文(批評随筆小説等) 詩の試みー知りすぎている貧しさの中で mixi日記より 2010.12.9 Copyright 前田ふむふむ 2014-07-09 10:27:11
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