口語自由詩における写生についての問題提起/……とある蛙
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- るか 
ミメーシスは再現とも模倣とも訳出されますが、この「再現」をめぐる思想には歴史的な累積があって、デリダらのいわゆる「現前の形而上学批判」といったものに流れ着きますね。だから、手帖的な現代詩が「写生」を軽視しているというよりは、「写生」への理解と批判からああいった形になっているものと思いたいですね。少なくとも建前上は。「再現」は「代理表象」政治的には「代表制」の問題に関わってくる。大きな論点だと思います。またプラトンーアリストテレス的には、朔太郎らが追究した「音楽性」もまたミメーシスに含まれているのではないでしょうか。

---2011/07/14 12:58追記---
 直接に子規ー虚子のいわゆる写生や、写生文と現代詩の関係を扱った詩人の論考には私も出会ったことがないし、近代詩の歴史的発展の経緯から、余り取り組まれて来なかったのは事実だと思います。詩人の写生論としてはこんなものが。http://www.amazon.co.jp/%E5%86%99%E7%94%9F%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E-%E5%90%89%E6%9C%AC-%E9%9A%86%E6%98%8E/dp/product-description/4062101009
ただし、これは当然シュールの問題に関わってくるけれど、現在において支配的なのは「詩は表現ではない」という入沢テーゼであって、写生をめぐる思考にも幾つかのパターンがありましょうが、一般には広く「表現」としての作品営為のうちに写生も含めてかんがえられているものと。むしろ最近の若い人は、「表現ではない」作品の様式をも利用して何か内的なものを表現しようとしているように私は感じています。
- 高梁サトル 
- 北村 守通 
- beebee 
- 殿上 童 
- N.K. 
うろ覚えですが、俳句が英語でも読まれるようになったり、ウィリアムズの詩集の解説で、ウィリアムズの有名な詩が、俳句のようだと論じられていたりする文を目にしたりしたことがあります。その意味で、詩、とくに英語圏の詩における写生は、興味深いと思います。また、それとは、ひとまず関連なく、日本語の現代詩は、写生ということとは、別の道を模索しているような気もします。日本の現代詩、口語自由詩の文脈で写生を考えることは、現代詩の新たな可能性がそこにあるかもしれないという意味で、これまた興味深いです。
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- 非在の虹
確かに、「写生は古い」の一言で片付けられやすい命題である。
蛙氏の詩作にとって「写生」とは、という点に、自作を持って論考されるのを期待する。
(私にとって写生とは、口語という書き言葉の発生につながっている。気に掛かる大きな問題である)
 
作者より:
渡部 雅士 さん 詳細なコメント・ポイントありがとうございます。

>デリダらのいわゆる「現前の形而上学批判」といったものに流れ着きますね。


文字言語で創られる詩と朗読などハプニング性のある詩との間の差異なども重要なことですが、まだ手に余ります。

>だから、手帖的な現代詩が「写生」を軽視しているというよりは、「写生」への理解と 批判からああいった形になっているものと思いたいですね。


知っている範囲では何も答えていないし、理解と批判など具体的にはお目にかかったことがない。もしあるのであればご教示頂きたい。

高梁サトル さん ポイントありがとうございます。
北村 守通 さん ポイントありがとうございます。
beebee さん ポイントありがとうございます。
殿上 童 さん ポイントありがとうございます。

存在と本質さん コメントありがとうございます。
---2011/07/14 14:14追記---
渡辺雅士さん、追加コメントありがとうございます。残念なことに吉本隆明氏は生理的に嫌いなようで(宮沢賢治を読んで以来ー笑)おそらく読まないとは思いますが。
稚拙ながら自分ですこしづつ考えてみます。



Home
コメント更新ログ