口語自由詩における写生についての問題提起
……とある蛙
口語自由詩の世界を構築するために過去の詩人たちの苦悶格闘に関しては詩をよく勉強されているらしい人たちには言わずもがな なので勉強不足の私からあえて論ずる必要もない と思います。
ところで、TSエリオットなどが文芸批評論などで論ずるよう過去の伝統から何かを継受する必要があるのではないだろうか。過去をすべて否定して夜郎自大な詩を創作していてよいのであろうか。
短歌及び俳句の世界では写生論がその革新期に現れ(子規や茂吉)、当然のごとくそれを発展的に継受し現在も活発に創作されている。
詩においても写生論は当然見直されてしかるべきものではないかと考え得る。
元々詩あるいは詩なども含めた文芸作品はアリストテレスの詩学を引用するまでもなく原初的には「再現行為」であることが、当然予定されている。それが発展的に現代の文芸につながるわけであるが、忘れてはならないのはあらゆる文芸が内心も含めた事象の再現行為であると言うことである。この点全く否定するのであれば(シュールなもの、夭折した山本陽子など)問題とならないが。
言葉の性質による変容により正確には異なる位相になることもままあろう。しかし、正しくは写生こそ芸術の王道であり、あらゆる芸術はその基礎に写生がある(違う見解もあるかも知れないが)。
口語自由詩は萩原朔太郎の「詩の原理」における描写の否定、情象(リズム、音楽性)あるいは小野十三郎の短歌的叙情の否定などから写生を否定しているかのように思える。
誤解を恐れないで論ずれば、朔太郎いうところの描写とは単なる事象あるいは事実の模倣を意味するでは無いかということである。 写生を通じて表現するものが写生する物と同等の価値を創造することこそ重要なのでは無いか。と私は考える、詩において写生を否定する理由は無いと言わなければならない。実在する事象と同程度価値ある物を創造出来るのであれば、写生の復権は閉塞化した現代詩の打破するものではないかと考える。
写生の中に内面を表現することも可能である。茂吉の言う観象などよく考えれば、単なる写生ではなく写生を通じた内面事象の表現につながるのではないかと思える。すなわち詩における写生の問題は議論されてしかるべきだと思う。あまりにも議論しないで終わっているテーマなので。