とどかない光/小林レント讃5
渡邉建志

承前

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■揺(yu) http://www.rondz.com/poem/poet/12/pslg11287.html#11287 について(未読の方はとにかくまず、この作品だけは私の文章を読む前に読んでほしいです)

詩が短い小説と何が違うのか、について、ずっと分からないでいたのだけれど、「揺(yu)」を読んで、激しいショックを受けた、それは、初めて、詩という、説明文としては不完全な文体から、その不完全性からこそ湧き上がってくるイメージのスペクトル、意味のスペクトルの霧こそが、詩のひとつの存在意義なのだと気付かされたからだ。

つまり詩においては、文章の「意味」に拘泥されすぎないことが大切なのかもしれない。言葉と言葉の繋がりに何らかの論理的関係が無いと気がすまないとか、ここは順接、ここはこの動詞に対する客体、この文とこの文は時間の流れに沿っている、等の論理を追わないと気がすまないとか、そういう人間には、詩を書くには向かないのかもしれない(僕のことです)。

レント氏の作品のすごいところは、彼が常識的な「意味」に偏重せず、そこから見事に開放され、つまり論理から離れて、その才能の赴くままに書いている気がするところだ。その場所で彼の詩を支えているものは、意味だけではなくリズムや音楽の心地よさであると思う。さらに、意味や論理を超えた言葉と言葉のつながりが生み出すイメージであるとも思う。つまり、言葉と言葉の間に論理の「ずれ」がある。そして、読む人の頭の中で、その論理のずれという谷から詩的なイメージが霧のように沸きあがってくる。このようなずれ、意外性(本当は「そうでなくてはならぬもの」であるから意外でもなんでもないのだが、あまりにもそれがきらめいている表現なので意外と思ってしまうのではないだろうか)をもつ言葉を書けると言うこと。そのような、論理のずれ的な言葉と言葉のつながりの中にこそ、その詩人の「におい」がするような、通り過ぎることができない何かがあるような、気がするのだ。その谷にこそ、読者の想像が空へ飛翔してゆくような余裕があるのかもしれない。

未読の方はとにかくまずこの作品だけは読んでみてほしいのです。そのためにこれを延々と書いてきたようなものだし、この文章がきっかけでこの作品を読まれることになった方がいたらそれだけで僕は生きていた価値があったとさえ思います。

揺(yu)、1999年12月11日の投稿。これまでのおさな/かっこいい歌と、まっすぐに鮮やかなイメージ喚起の総決算(この作品以降はイメージ喚起はもっと屈折し、歌も複雑化していくという、あたらしいステージになる気がしている)。世界の断片ではなく、この詩自体が宇宙であり、詩人の言葉自体が宇宙が語っている言葉のようだ。この、レント氏の言葉自体が宇宙の言葉になっているように感じるという現象は、彼のすばらしい作品を読んでいるときよく起こる現象のような気がする。この詩ではとくに、静から動へかけての宇宙の鳴動の大きさが、宇宙的な言葉の選択で語られている。そして、いまさらのようだけど、これは15歳の作品なのだ。

相変わらず何を話せばいいのか分からないのだけど。つまらないことしかいえないのを承知しつつ。

作品の構造。「河のほとりで」、「山道の風景」、「穴」、「地下」の4つの物語からなり、それが交互に組み合わさってこの火山と河の宇宙が展開される。河のほとりの歌にはじまり、しだいに歌はビートになり、叫びになり、すべてがまとまって爆発し、そしてまた河のほとりの息の長い歌に終わる。とりあえず順番どおり目次にすると以下の通り

「河のほとりで」0.序 
「山道の風景」1.天使の首 2.笑う 3.揺(yu) 4.揺(yu) 5.イキタリシンダリ 6.叢
「穴」1.穴
「地下」1.根 2.水 3.マグマ 
「山道の風景」7.泡立つ石段 8.揺(yu) 9.開いた光 10.炎上 11.山頂
「河のほとりで」1.河の流れ

こうやって題名を見ながら、そこで行われていた情景を思い返してみてください。さいしょ、少年詩人は、わたしたちは、ゆったりと流れる河をみている。そして、いったん少年詩人の存在は「消える」、彼は宇宙の視点、神の視点そのものになる。さまざまなもの(天使の首や笑う木や地蔵やゴーストやマグマや虫や石段が、、、そう、これまでの彼の詩のキャラクターの総決算みたいに、、、)が出てきて、しずけさがあって、そのあとにはげしく炎上してそれらのすべてが消えて灰になり、最後の最後にまた少年詩人があらわれて、しずかな歌を歌う、という構図。世界の大循環。


●「河のほとりで」0.序

揺れるようなリズム。
青い
青い
透明の河が
目の前を流れている

「青い」の反復。その静寂と平和。



●「山道の風景」1.天使の首 

動き。加速するテンポ。さいしょはゆっくり

跳躍
      跳躍
べちゃ
      べちゃ

しているが、のちにスピードアップする。

低「ぶすぶす」い空(そ「ぶすぶす」ら)へ
消え「ぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶす」てゆく

天使の首は「べちゃべちゃ」
天使の首は「ボドーーーーーーーーーーーーーー
どーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
天使の首は
山道をのぼる 
      いびつな
          いびつな動作で

この「ぶすぶすぶす」の挿入、すごい。意味ではなく音の挿入。ボドーのあとのどーがすき。さいごの「山道を/山道を」のくりかえしもすごく好き。すごく朗読していてたのしい。音の感覚が実に鋭い。



●2.笑う 

くりかえしの声の怖さ。

それを見ていた樹は笑っていた

(溶けろ 溶けろ)

空が青い山も青い樹も青い河も青い

溶けろであって融けろではない。つまり「融」解ではなく、例えば「溶」解なのである。そのすこしの軽さ。木は笑っているので、呪っているのではない。それにしてもこの(2回目の!)「(溶けろ 溶けろ)」は恐ろしい。括弧の中にあるぶんおそろしい。しかもそのあとに来る青いくりかえしが、きゅうに視野を広げてすごい。すごいとかしかいえない。息をしないで言い切ってしまうすごさ。あなたは誰ですか?

あなたは誰ですか?



●3.揺(yu) 

揺れるリズム!

縦と横の石や岩のひろがり
そして(そのまままっすぐ進みなさい)宇宙へのひろがり
上方下方上空へのひろがり
そして(おいつくことはできない)宇宙への広がり

揺れている触れないで揺れているどこまでも

この(そのまままっすぐ進みなさい)は相変わらず誰の言葉なのか分からず、最後の「を」一文字改行はすさまじいですね。そのリズム!さらにつづくのは息をしないで揺れて歌いつづける歌。



●4.揺(yu) 

例の缶の内部への射精http://www.rondz.com/poem/poet/7/pslg6516.html#6516を思い出します。短く鋭く。



●5.イキタリシンダリ 

崖をのぼる水にも現われたモチーフの地蔵である。ここでやっぱりすごいのはこの細かい(ある意味ユーモラスな)描写

やっと額まででてきた地蔵もある
(苔むしている)
いちばん東側にある地蔵は
10秒間で生えたりひっこんだりを繰り返す
(つるつるである)

である。この()が楽しい。それからまた歌。

生きることは「生える」こと
死ぬことは「ひっこむ」こと




●6.叢 

くりかえしが多くなってきて、文体が崩れはじめる。

吸われる
吸われる      へこむ 
吸われる         潰れる
     吸われる 吸われる
吸われる
     何に
      彎曲するその光に

吸われるの反復。ただリズムのための。そしてときどき早口で意味のある言葉が口走られる。「へこむ」がすきです。



●「穴」1.穴 

いままでの動きがここで止まり、静寂が戻ってくる。それにしてもこのリズム

それは深く
枝分れして
暗く
それは存在ではなく
「ana」である
それは存在しないものである
「ana」である

この、「暗く」の短さがたまらない。そのあとにつづくほかよりすこし長い沈黙が。「く」の脚韻の中で。



●「地下」1.根 

まだつづく静寂。みているだけでなく、ついにわたくしたち自身への言及が現われる。その前の、

死の
 それは
   死の 
    しかし

もかっこいい。



●2.水 

動きはじめる。「水は流れ水は流れ水は流れ」がすてき。流れていくさまが感じられる。



●3.マグマ 

動きと静止のぎりぎりのきわどいバランス。

地上の虫たちと同じこと
      這っている

がこわい。

          とポん
  とポん      とポん

はもっとこわい。



●「山道の風景」7.泡立つ石段 

場面は地下から動きのはげしかった「山道の風景」へ戻る。かつてみた「こらえられた笑い」が現われる。

土は息をひそめている
樹は笑いをこらえている
こらえられた笑いに虫が這っている
根は伸びつづける
わたくしたちは殺すことができる

このつながりの、息もつかせぬつながりかた!



●8.揺(yu) 

最後の静止のまえに、いままでの動きがまとめられている。そう、まとめられているのだ。しずかに。

揺れる
  「し」以前に
       ・・・揺れる

この三点リーダの沈黙はすごいですね。



●9.開いた光 

そしておそるべき、さいごの静止。「光」、と、「開く」、という二つの言葉の選択の素晴らしさ。光がまぶしい光が見えてくる。優しい。



●10.炎上 

静止の後の劇的な動き、つまり爆発。もはや朗読めるせかいではない。たくさんの文字の図形的くりかえし

吹き出る
吹き出る吹き出る
吹き出る吹き出る吹き出る吹き出る
吹    吹き
 吹吹吹
            炎上!

や、33個の「!」や、題名を含め29個の「炎上」を、その技巧を超えたすさまじいエネルギーを、ただ呆然と見つめるばかりだ。


●11.山頂 

「10.炎上」の最後の特徴的なたての三点リーダ







につづく、しずけさ、死。

燃え上がる山頂に
天使の首が転がっている
跳躍は
    もうしない
天使の首ではなく
       それは
天使の首の影

ここの揺れるリズム、とくにこの「もうしない」の「もう」は「崖をのぼる水」のなかでいちばん美しかったあの言葉だ、あれとおなじ静かな諦めだ。殺しているのは、「わたくしたち」だという。そして視点はまたわたくしたち自身に戻ってくる。あの、幼いと同時に老人のような、一瞬を生きる少年の視点に戻る。最後の章。



●「河のほとりで」1.河の流れ 

死の後のしずけさ、最初へ戻った静寂と平和。ずっと「見」つづけていた少年は、はじめて動作する。流れに足をつけるという動作を。

わたくしたちは
        揺れる
燃え上がる   
        山を見ながら
河の流れに
        足をつけて
揺れる
    揺れる
        揺れる

さいごの「揺れる」のくりかえしを声に出してよもう。

現実界たる山は激動のうちに死に、また再生するだろう、その隣で、しかし、少年詩人はその激動の外野にいる。外野で流れているのは河である。河は詩である。つまり、詩は山(現実の激動、生と死)ではなく河(それを遠くから静かに眺める宇宙的視線、「生きても死んでもいないその流れ」)なのである。詩の最初にこう言う。

詩という河に言葉を流すか
言葉で詩という河をつくるか

青い
青い
透明の河が
目の前を流れている

ここで眺めていただけの河に、少年やわたしたちは足をつけていま無邪気に遊んでいる。そして河と共に揺れている。殺すことはできるけれど、わたくしたちはわたくしたち自身の認識を、内部を、わたくしたちを、殺すことができるけれど、それでも殺したとしても届かない宇宙がやっぱりある。こう読んでいくと、実はこの詩はわたくしたちの認識が宇宙を決めるのではなくて、宇宙はわたくしたちの手の届かないところに存在する、というふうに、意外にも、読めてくる。(意外にも、、、というのは、それは普段のレント氏と逆の主張のような気がするから(宇宙を認識しているのはこのわたしなのだ、というような、、、)、、、彼の好むヴィトゲンシュタインを引くならば、ここにおける宇宙は例の「語りえないもの」なのかもしれない、、、)少年やわたくしたちは、いま激動の現実界(=山=生の世界?)にいるわけではない。しかしとどかない宇宙(=彼岸?)。とも言っている。つまり、いま少年やわたくしたちが足をつけて遊ぶ「河」は此岸と彼岸の間の河なのではないだろうか。「崖をのぼる水」で出てきた生前と死後の間の世界ではないだろうか。その河で、わたくしたちは、生と死のあいだを揺れつづけるのではないだろうか。美しい終結だとおもう。内容も、そのリズムも、かたちとしてさいごのことばがやさしい「わたくしたち」であることも。

とどかない宇宙
   とどかない光
     揺れている わたくしたち





2005/9/12, 10/1改稿


散文(批評随筆小説等) とどかない光/小林レント讃5 Copyright 渡邉建志 2005-10-02 01:31:43
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