承前
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=50747
1999年も9月に入った。それにしてもここまでの作品の投稿スピードは意外と速い(すべての詩をここに引用しているわけではないが)。よくこれだけのアイディアが次々出てくるなあと思う。3つのソネットが投稿されている。どれも動きは静かだ。
■どこからか
http://www.rondz.com/poem/poet/6/pslg5636.html#5636
「沈む」と「淀む」はどことなく形が似ている。漢字の形の相似でつながっていく。ますます強調されるスペースと75調。なんとなく船のような揺れ方をしている。
■眠る人の肖像
http://www.rondz.com/poem/poet/6/pslg5637.html#5637
ここでも大きな二拍子をとりながら読むことができる。極端なほどに徹底して、おそい二拍子を歌っている。その徹底は安心を生む。そして例のごとく安心の中に小さな驚きがある。
柔らかな まつ毛の上に
小さな羽虫が 一匹のって
白い埃を はらっている
起承転結の転といった様相で、クローズアップが行われる。ここでもまた、「白い埃」という一見なんということのない表現が鮮明な画像を読者に喚起するだろう。
最終行が優しい。純真さ、を思う。「僕の悲しみ/ / /ひさしぶり」や「ただ なんか/ /うれしかった」と同じ空気だ。15歳の少年にしか許されないような、ある、どこまでもな、純真さ。それがバカで愚かな感想だとは分かっている。15歳ということがそんなに重要なのか?知らなかったら作品の価値は下がるのか?と聞かれることは分かっている。ごめん、僕にとっては彼の作品ということを知ったからには、「ある声」を伴ってしか読むことができなくなってしまう。その声は僕が勝手に頭に作り出した声に過ぎないのだけれど。後に知ることになる詩人の声はとても低い声だった。それでも15歳のときの彼の声がどうだったかは分からないし、僕は「僕の中の15歳の声」を、この時期の彼の詩を読むときには必ず呼び出してしまう。
■湿原の夜
http://www.rondz.com/poem/poet/6/pslg5710.html#5710 これはまず読んできてください
この詩が大好きだ。彼のソネットの中でいちばん心を惹かれる。沁みいるような静けさの中だからこそ、「毒」も染み入ってくるのだ。
花は「咲きつづけ」る。さらに「水の温度を/賛美している」。咲きつづけるという表現は珍しいし、さらに温度は普通は賛美されるものではない。そもそも花も賛美する主体としては珍しいだろう。
賛美される温度としては、ヘミングウェイ「武器よさらば」の13章にこんなのがあって、その中でも光っている。
(恋人の看護婦に体温をとってもらう。恋人は僕にキスして言う)
"Your temperature's always normal. You've such a lovely temperature."
"You've got a lovely everything."
"Oh no. You have the lovely temperature. I'm awfully proud of your temperature."
試訳
「あなたの体温はいつもおんなじよ。あなたの体温、すごくラブリーだわ」
「なんでもラブリーなんだね」
「ううん、あなたの体温は本当にラブリーなの。あなたの体温はわたしの自慢なんだから」
あといろいろ言いたいことがこの詩にはあるのだけれど、この詩は愛しすぎているので言いすぎるのは自分に対して無粋だし、とにかくみなさんには深く味わってほしいです、とだけ言って、でも一つだけ指摘したいことがある。
第三聯は敢えて短くおさえて世界を静かに保ち、第四聯は例外的にすべての行が複数のかたまりを持っている、ということ。その絶妙なバランス感覚。そしてこの最終行にこそ、僕は詩を見たのです。小説と詩の違いを「毒」の一言に見たのです。毒という一語が飛翔しうる距離のなんという遠さ。
+
ベートーベンの、シンフォニー3番(「英雄」)を書いてから10年を「傑作の森」と呼ぶことがある。この言葉がなんだか好きで、だって森ですよ。傑作の森。
今日の傾斜、青い怒り、水にぬれて輝く、の連続した3作を、勝手に「1つめの傑作の森」などと名付けてみたい。ここで一段階ぐらい内容が深くなったような気がする。それに、みんな青い。
■傾斜
http://www.rondz.com/poem/poet/6/pslg5875.html#5875
この詩は、何度か読み返して、その映像が目に映るようになるのに時間がかかったけれど、いま読むとすぐその絵が鮮烈に浮かんでくる、ぼくにとってこれはそういう詩だ。
透明な立方体の中心を
見極めようとする 君
硬直したままゆっくりと
倒れてゆく僕の身体
ゆっくり読んでみれば、その映像は、スローモーションで割れる結晶みたいだ。第四聯の、スローモーションが一瞬とまる映像も好きだ。傾斜が「あの青い坂道」と同じになるその瞬間。一瞬を青で表現する鋭さ。
■青い怒り
http://www.rondz.com/poem/poet/6/pslg5962.html#5962
これは詩だろうか?それが語弊があるとすれば、これは「書き得る詩」だろうか?むしろ、詩を書いているというより、アルコールを爪から吐き出しながら心が叫んでいる、というように思える。「アルコールが/滲み出てる/舐めてよ」のリフレインを見ていると、これはもう技巧論で語りうる範疇を超えている。模倣ができる世界ではないと思われる。読んでいて、ここに書かれた少年はほんとうにこの通り感じたのだということを強く感じさせられる。文体という服を着ていないで、素っ裸なのだ。不思議な詩。「セルシン」という一言だけで、なにか恐ろしい力を感じるのだから。もうこれは理性の世界じゃないよ。叫びの世界だよ。だから、好きにはなれないけれど、これはとても強い詩だと思う。
■水にぬれて輝く
http://www.rondz.com/poem/poet/7/pslg6071.html#6071
逆にこちらは理性でコントロールされているのが分かるだろう。前が叫びだとすればこちらはフォークだ。みんなが歌えるようにリズムを計算して作られている。だからといって内容がつまらないわけではなく、文体と交じりあった水の遊びのようすがきらきらと描かれていて、ぼくはとても好きだ。
ぼくは破片となってたくさんのぼくたちとなって
街に出て遊ぶだろう
ぼくは誰からも見つけられずにぼくたちとなって
街の朝を泳ぐだろう
この内容の美しさ。玄武岩という言葉から始まって、なにか時間と細かい結晶のイメージが覆っている中で、ここもまた硬い、そして分散した、結晶の破片が見えるだろうし、そこに乱反射する光も見えるだろう。かつての人ならスキゾ的逃走というだろうか。美しいのは確かだ。そして、軽いのも確かだ。だけど、僕はこのみずみずしさを重視したい。これは砂漠の砂ではない。一瞬の輝きであって、永遠の乾燥ではない。一方に「青い怒り」があって、そして次に「水にぬれて輝く」がある、という事実について、なにかを考える。
+
レント氏の詩の題名はとてもポップだったり、あるいは心に沈潜したりして、なんともいえないニュアンスがある。
蝶の存在
木を叩く
僕が眠るわずかな時間に
平和な街
蝶の存在、なんていう題名だろう。うまくいえないのがもどかしいんだけど、たとえば「何々の存在」という言葉を、普段使うことがない。「解の存在」とか「容疑者の存在」とか、ちょっと特殊な場面でしか使わない。哲学や科学が入る。「存在」は「存在する」という動詞的な意味をふくむ名詞だから、ここでは「蝶が存在すること」という意味を頭に擦り付ける。頭の中心に蝶が一匹存在させられてしまう。なんというか、スワロウテイルのCharaの刺青とか、あれは「蝶の存在」って感じがする。この詩はまた違うのだけれど、存在という言葉の強度は強い。
木を叩く、というのも、なんというか、ぽっかりと穴が開いたみたいだ。
僕が眠るわずかな時間に、は優しい言葉で、ときどき思い出して、悲しくなる。ときどき自分の発想だと勘違いして、それで詩を書いてしまう。「僕の眠るわずかな時間に/君はいったいなにをしているんだろう」とかそんな陳腐な詩を書いてしまう。
平和な街、は、その詩文の強烈なイメイヂ、ダダイズムを一言で代表してしまうすごい題名だ。ジャストだ。
■蝶の存在
http://www.rondz.com/poem/poet/7/pslg6280.html#6280
ここにあるのは蝶との会話である。一対一の僕と蝶との不思議な会話。会話よりちょっとだけ踏ん張ったものが詩になるのかもしれない、と言っていた人がいた。ここではたとえば
蝶よ 消えゆくときはせめて
仄かに浮かぶ霧へ
はっきりとした羽ばたきを
ぼくに 見せよ
が踏ん張って、でも「レント氏作」と言う感じで、好きだ。「ぼくに 見せよ」。
■木を叩く
http://www.rondz.com/poem/poet/7/pslg6352.html#6352
この詩の木魚感がたまらない。ぽくぽく感。
木を叩き
木を叩き
木を叩く
暑い昼間
犬の散歩
犬の足跡
飼い主を
引き摺る
引きちぎる
赤い足跡
犬の散歩
このあたりの、リズムによってナンセンスもろとも読者を引きずっていく感じがたまらない。引用部最後の「犬の散歩」の笑いはたまらないです。「木を叩き/木を叩き/木を叩く」の2+1のくりかえしパターンのセンスはジャストだなあとおもう。ジャストだと鑑賞できることとそれを作り出せることはたぶんまったく違うことなんだけれど。
■僕が眠るわずかな時間に
http://www.rondz.com/poem/poet/7/pslg6353.html#6353
前述の「普通の文章よりも少しの踏ん張り」は、この詩の「静かな/反抗/では/なかったか?」にも当てはまるだろう。かっこいい。あとおそらく初めてあの閉じないカギ括弧、ひと呼んでレント括弧、が現れる(ごめんいま勝手に名付けました)。
二人の男が話す
「あれは梨ではないかしら
「やはり林檎じゃないですか
細かいけれど、この「やはり」がたまらない。現代国語の問題集だったら「いいえ」とか「むしろ」とか逆接を入れなくちゃペケされるのに、一人合点の「やはり」をいれてなんだかかみ合ってない会話にしてるのが可笑しい。あと、さいごの「歩く歩く」のイメージ喚起も鋭い。
■平和な街
http://www.rondz.com/poem/poet/7/pslg6516.html#6516 とにかくまず読んできてください
傑作が現われた。どうしよう、話そうか辞めようか。「湿原の夜」のときはあまり話さなかったけれど、ここはあえてたくさん話してみたい。なにしろぼくは因数分解中毒者なのだ。
冒頭からすごい。
空き缶と道路が近親相姦
これだけでどれだけのイメージが喚起されることか!論理関係を失った言葉が、(論理と言う手綱を解かれて)、どれだけ飛翔できることか!ほとんどこの1行で詩が成立してしまっている、とか軽口を叩いてしまう。このあとの「空は晴れている」という聯の終わり方の決まっててかっこいい。ついで太陽でないものが陽炎をおこしていたり、なんとなくその「退屈」さが伝わってくる。退屈さを共感させればこの詩の勝ちだ。退屈であり平和であり平凡であるさまを感じさせる。さらに僕はなんだかポプラ(選び方の類まれな「平凡」さ)の下にいる。地図が乾いているのとか、もういちいち意味があってそれを感じることができてたまらない。そしてすごく好きな聯がくる。
一本足で歩く
平凡な一匹の犬が寄ってきて
僕に訊ねた
たまらない。だけで済まして次にいくほうがかっこいいが、今回は体面とか文体とかかっこよさとか無視してたくさん話すのだ。まずこの一歩足で歩く、がいい。どうやって歩くのか、それはそもそも歩みなのか。不思議である。次に平凡ときた。一本足が平凡なわけがない。矛盾である。これはたぶん一本足にも関わらずあまりにも平凡なので一本足でも平凡な犬なのだろう。ここで重要なのは、「一本足で歩く/平凡な一匹の犬」と書かれただけで、僕らはいろんなイメージを勝手に抱き始めると言うことだ。そして重要なのは、犬の声や話す顔をやっぱり次の聯で考えざるを得ないところだ。自分で助産してしまった犬だから、読者としてもこの犬がかわいくてたまらないんじゃなかろうか。「平凡な犬が好きな僕は」、という、ここでもわざわざ「平凡な犬」といっているのもたまらないし、その「好き」な気持ちも共感せざるを得なくなってくる。それから「僕」は「できるだけよいこたえを探」す。好きな平凡な犬のためにがんばる少年のけなげさ。さて答え探しはすこしずつ文字数が増えて、最後に現われるのが名作「因数分解中毒者」である。注目は、「平凡な犬」(4回)という単語にこだわっている「僕」がこんどは「因数分解中毒者」(5回)という単語にこだわりはじめるところで、おかしな単語と言うのは言われるたびに楽しいものですね。いちばんいいのが次の、やっぱりちょっと踏ん張った会話
因数分解中毒者が
どこに在るのかは知らないがね
たまらない。知らないがね。この語感。僕はちょっと偉そうである。相手が平凡な犬だからね。「たまにはよいかな」とか言う。この詩のクライマックスは次である。
僕は因数分解中毒者が
どこに在るのかを探しに
ポプラの樹の上にのぼった
平凡な犬も一緒にのぼった
ここである。忘れたころにでてくるこのキャラクターがたまらない。そもそもいったいどうやって登ったんだ。平凡な犬のことも忘れていないぜ、というレントくんの愛が感じられる。僕と平凡な犬が一緒にポプラの樹の上に顔を出している絵は愛らしくてたまらない。樹から二人が見下ろすと、
空き缶は内側に射精を繰り返す
というのが最後の山である。空き缶は暑さのためについにイってしまう。イくのはレント作品のひとつのモチーフになる。内側というのもまたひとつのモチーフだ。それにしても、射精は外側にすべきものなのに、内側にしてしまう自己相姦(?)がたまらない。それはものすごく気持ちが悪い感覚だと思う。ぜったい気持ちいい射精じゃないはずだ。内側に射精するという感覚を味わったことがある。これは早漏防止のトレーニングってやつにたいてい書いてある方法なのだけれど、射精する瞬間に尿道を手で物理的に閉めるのである。だけど僕は失敗したらしく、筋肉は本格的に痙攣してしまって、精液は外へ出ていけなくて、なんと逆流したのだ。どこへ?ぼくはおもわず叫んだ。「精液はどこへ消えた?」 あの気持ちの悪さは一生忘れない。二度とやるまい、とおもう。早漏だってかまうものか。ところでぼくはいったい何を書いているんだ?
+
■或る夜に
http://www.rondz.com/poem/poet/7/pslg6517.html#6517
くりかえしがとんでもないことになっていく感じ、とくに「どうだろう」が「どうなってしまうのだろう」になりついに三点リーダに至る焦り具合がいい。
■静かな昼の風景
http://www.rondz.com/poem/poet/7/pslg6627.html#6627
僕がいない(それはある意味いつもそうなんだが)。風景だけが淡々とあり、それはそれで一つ一つ絵が浮かぶ。
とおくの山脈が 鳴いた
静かな昼
おそらく「凪いだ」から音韻的横滑りでたどり着いたこの表現が凪よりも美しく思えるのだ。こういうことは詩においてよく起こることのような気がする。
■食べる
http://www.rondz.com/poem/poet/7/pslg6663.html#6663
五聯の律儀さが、らしさを感じる。
■微笑の風景
http://www.rondz.com/poem/poet/7/pslg6956.html#6956
傑作。すごいことになってる。構文上の一つの革命、図形的詩文へ一歩の歩み寄り。このぐらいの位置がぼくはとても好きだ。なんというか、ぼくの中で、配置が音に変換できてしまうのだ。微笑の痛みがすごい。
樹木の微笑、をぼくは きぎのびしょう とずっと読んできて、いま きぎ では変換できないのだと気づいた。普通 じゅもく ですね。うーむ。
真っ赤になって消えてゆく
樹木の微笑の余韻の中の
僕は微笑
この構造の美しさ。微笑が樹木から僕に受け継がれるのは、ただの図形上の遊びではなく、きちんと映像(気味の悪い)になって立ち現われてくる。すごい。
■ため息
http://www.rondz.com/poem/poet/8/pslg7048.html#7048 冒頭
昔からそこに在った空
ひたすらに
夜と昼を繰り返しつづけ
退屈に
雲をつくってみたりする
みたりする、が好き。らしさ、がこの辺にありそうな気がします。そのあとに続くため息の映像は、微笑の風景の差し迫った痛みを伴わないのどかな想像力の広がりを感じさせます。好きです。
■小さな眼球
http://www.rondz.com/poem/poet/8/pslg7049.html#7049
凍った時間、スローモーション。痛いかと思うと、意外にゆっくりしているのかもしれない。
■暗い液体の中
http://www.rondz.com/poem/poet/8/pslg7173.html#7173 部分
舐めて
柔らかい歯茎で押し潰し
唾液を流しつづける
歯茎と舌のうねりに
傷に張りついていた
わずかな神経は
一つ 小さく叫んで
そのまま昏睡した
神経系の痛み。器官は常に尋常の数倍の刺激を受けて、はげしく存在するが、一方で静止が対比されることも忘れてはならない。彼の詩に対する「剥き出しの神経」という評は言いえて妙だと思う。
■悲惨な不眠
http://www.rondz.com/poem/poet/8/pslg7174.html#7174
再び眼球。そして数倍の力の篭った叫び。
死ねない魚が
浮かんでいる
虚しい
虚しい
ただ ただ虚しい
夜じゃないか!
「さて」という話頭の転じ方に不釣合いなぐらいの悲惨さがたまらない。その、悲惨の入れ物として口ぶりが幼すぎて、ひょっとするとその不均等こそが彼の詩を、独特の詩にしているのかもしれない。
+
■白い糸を張りつけ
http://www.rondz.com/poem/poet/8/pslg7222.html#7222 冒頭
僕は僕の神経をむき出して
白い神経をむき出して
落ちてくる夜を受け止めている
星と
闇を
剥き出しの神経はからだの中ではなく、外にまきついている。そういう絵がぼくには浮かぶ。ぼくはその白さをみようと心の目をこらす。わざわざ白いという色を指定していること。そしてその白い糸が見えたとき、それは夜の暗さの中で怪しく光るし、舐められたときの無味がその白さと関係を持ち始める。
■丘の上で目玉は
http://www.rondz.com/poem/poet/8/pslg7261.html#7261 部分
ゆっくりと
静止
眺める目玉
ここでの目玉は先にあげた『プラスチックソウル』の「僕の魂」や、『ひきだしの奥』の「僕の悲しみ」と同じく、自分の一部でありながら、もはやそうではなく一個の意志をもった(かのようにみえる)いきものとして、独立して移動する。そのようすはともするとかわいかったのだが、ここではいかんせん目玉であり、「僕の悲しみ」ほどの可愛らしさ(多少語弊あり)はない。だけどそれでも引用部の目玉にはやっぱり愛らしさを感じてしまうのだなあ。
「ころころ」がいい。つぎの「静止」もいい。
最後が好きだ。
■秋の日の雨
http://www.rondz.com/poem/poet/8/pslg7465.html#7465 ぜひまず読んできてください
歌だと思う。朗読してみると素晴らしく美しい。たぶん日本語特有の、間のみずみずしさを保っている。冒頭をみよう。
秋の日の雨
脇の溝には流れ込まずに
道に落ちた瞬間 消える
3行目の「消える」のまえのスペース。そこでの一瞬の読者への息の取らせ方。朗読者とすれば、いかにこの瞬間に雨粒を消えさせるか、というのが勝負だとおもう。ここの消える、は、ほんとうに美しい3文字だとおもう。もうひとつタイミングの取り方が難し(くも美し)いスペースがあって、
僕の頭髪に降っているのは
遠くから降ってくるのは
これは 秋の雨
この、確認するように「は」を重ねる手法がとても生きていて、とくにさいごの短い「これは」という、さいごの気づくような言葉の温かさや淋しさといったらない。とても好きだ。
■名前のない風景
http://www.rondz.com/poem/poet/8/pslg7466.html#7466 これもぜひまず読んできてください
前に勝手に名付けた「レントSF」系としてはこの作品が最高傑作だとぼくはおもう。この電車という狂った舞台。読んでいるだけで、なんだか作者の思い入れがものすごい。思い入れのある作品というのは、なんとなく読者にも伝わるもので、そういうものはなにか技術とか作為とかを超えていってしまう、力がある。
とくにここではじめて現われるレント語<LOW>には、なんともいいがたい迫力がある。朗読するとしたら叫ばずにはいられないだろう。
<LOW>・・・
ああ!僕の<LOW>・・・!
腹から搾り出すような叫び!
繰り返されるピエロという単語に、「僕」の声、「ピエロ」と読む声が聞こえずにはいられないだろう。でてくるたびに。
ピエロは僕を鎖で縛って
通路に転がす
優しいピエロ
僕は彼の視線から逃れられない
決して笑わないピエロ
優しいピエロ
高くあげた手から
透明の箱を
僕の頭へ
落とす
この優しいピエロのくりかえしがなんともいえない。さらに透明な箱の頭への落下!その痛感は言語野を経由せず直接クるかんじがする。この直接の痛感はレント作品特有だとおもう。個人的には「雨の中に」の頭に落下する雨粒の感触がいちばんの傑作だと思うが、それはまだ後の話だ。
透明な箱は
僕の額を割り
壊れて床に転げた
そこから『沈黙』が
溢れ出した
『沈黙』が箱から溢れ出すその様子!目をつぶって数秒ぐらい頭の中に描いてみたくなる。
(続く)
2005/8/5, 8/6, 8/7, 8/9, 8/10 ; 9/30 改稿