生前と死後のあいだで/小林レント讃3
渡邉建志

承前

 ある15歳の経路/小林レント讃1     http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=50747
 因数分解中毒者のために/小林レント讃2 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=50758



■街の上空を浮遊する水 http://www.rondz.com/poem/poet/8/pslg7617.html#7617

SF的作品の1。詩人(「ホームレス詩人」)はまたしても傍観者であり、「みな」に含まれないで、ただ蟻を見ている。蟻を見ながら、その世界全体をも見ているはず。「白い日」と同じ構図で。その視線は透明だろうと思う。そして、たぶん、いろんなものを透視している。そうするとどうしても「見者ランボー」とかいう聞きかじりの言葉を思い出してしまうのである。たぶんいろんな人が連想してきただろうけれど、この100年以上隔てた二人の15歳の詩人を並べてみたくもなるものだ。少年にしか透視できない世界があって、透視できなくなったときに19歳でランボーは筆を折ったのではないか、と実に適当なことを口走ってしまう。幸いに我らの詩人は活動を続けているが。

水は波打ちながら
太陽光を無限に屈折させています

とか、

ホームレス詩人の長いあくびが
静かな街中にひろがって
人々の眼は焦点を失った

といった表現は、なんともいえないもやもやした映像を与える。例の、曖昧さから来る想像域の広さである。詩最後の2行の速度が素晴らしく好き。



■朝焼け http://www.rondz.com/poem/poet/9/pslg8235.html#8235

<LOW>がまたしても現われる。系統としては「木を叩く」のように、リズムに乗せてぱらぱらと絵がめくれていく(高速の紙芝居のように)、

撃つ


撃ち抜く
撃ち抜いた

そのリズム感。徹底的にリズムを崩さない、4行前後単位の短い聯たち。

そして最後、

はやすぎたんだ
救うのが
おそらく
5秒ほど

この彼特有の、見得の切り方。なんと表現したらいいんだろう。
「おさな/かっこよさ」?



■夕焼けと日没 http://www.rondz.com/poem/poet/9/pslg8236.html#8236

相変わらずの歌声

稲妻がゆっくりと
その行為を通り抜けてゆく
どこまでも ゆっくりと

あの一角は
幸せだろうか


と、

「朝焼け」と同じ、「おさな/かっこよさ」(ダメだなこの表現…)

さっき
太陽といちばん長く
縺れあっていた あの雲
あの 生け贄の魚のうろこが
いま
僕に降る

これは もう 灰だ

流れに沈む 僕の意識

さまざまの 影

改行による空白はある「おさな/かっこよさ」のポーズであり(あるいはとーくを見ているのか)、最後連続する体言止めもまたその空白の、ポーズのリズム。これと同じ「おさなかっこよさ」のポーズは、たとえば「朝焼け」で、「はやすぎたんだ/救うのが/おそらく/5秒ほど」となって現われている。わざわざ倒置によって、現われてくる体言止め。朗読してみると、そのなかにあるおさなさとかっこよさになんともいえないすてきなものがある。



■コップが割れる http://www.rondz.com/poem/poet/9/pslg8323.html#8323

くりかえし。目と耳という器官になりきるということ。



■抱きしめる http://www.rondz.com/poem/poet/9/pslg8464.html#8464

これも、15歳にしか詠めない美しいナルシズム。短さが心地よい。僕はときどきこの詩の最終聯を思い出すが、自分で考えたのか、読んだものがのこっているのか、よく分からなくなっている。

構造としては、まず世界という広いものが現われ、つぎに「あなたという一つの真理」という小さいものが現われ、次いでまた宇宙に広がる、その呼吸のような伸縮は、宇宙へ広がる運動を見せながら、抱きしめるという内向きの運動に取り囲まれる。
抱きしめる「自分」の存在の大きさが、呼吸のように波打っているのだ。美しいと思う。



+



■深く。噛んで http://www.rondz.com/poem/poet/9/pslg8787.html#8787 これは是非全文読んできてください

後に出される詩集「いがいが」収録バージョンhttp://www.midnightpress.co.jp/publish/book/083.htmでは2箇所(深く。)を除いて句点が読点に変わっている。間(ま)の置き方の変化。さて普通に考えると、句点なんて、狙ったみたいな嫌な表現だが、ここにおいては、それが普通ではなくて彼一流のおさな/かっこよさ的な何かになっている。つまり、下手をすると稚拙に思えるような方法が、彼の手にかかると稚拙が逆に回ってシンプルにかっこよくなってしまう。これは、つまりその表現が小手先でひねられたものではなく、本能的に、才能から、天才から出てきているからで、僕のような凡才がまねしたって稚拙になるばかりである。これはおもねりでもひがみでもない。

その後で
僕は一匙すくったコーヒーを
眼に 入れた
瞼と眼球のはざまで
コーヒーは揺れた
その不明瞭な深み。に
足をとられて

僕は一匙のコーヒーを助けようと
して
瞬いた が

イメージがすごい。いったいどこから、深さ。や、コーヒーの点眼が出てくるのか。まったく参る。

形式としては歌詞だと思う。それが、ポップなかんじを出している(最後の聯は最初のくりかえし)。最初の聯の内容の衝撃と、矛盾するポップなリズム。

かつて僕は詩を書きたかったわけではなかった。詩という形式が必要なのではなく、思想の告白が必要なのだった。イメージの告白が必要なのだった、だからひたすらかきまくって、人に見せたり見せなかったりした。それを詩っぽいという理由で詩の場所に出してみると、面白がってくれる人もいた。だけど、僕は、詩は短い小説や、告白と変わるものではないと思っていた。そのときに彼の作品に出会って、まったくやられてしまったのだった。これが詩でなくてなんだというのか。これは短い小説ではない。ましてやただの思想告白でもない。彫刻された何かだ。鑑賞者を引きずり込む何かだ。その、詩が詩でしかできないことがあるのだということを、初めて強烈に感じたのが彼の作品に接してで、たしかこの詩にも衝撃を受けたような記憶がある。

自分が何かに沈んでいく感覚というのは、死に近づいていくことと似ているのかもしれない。おそらく、生と死はデジタルに分かれるものではなく、いうなれば「徐々に」死ぬのである。一酸化炭素中毒死を考えてみると、まず、たぶん意識が少しずつ遠くなり、からだに痺れを感じ、だんだんと意識が水面下(水面というのは、おそらく生活とか現実世界と同じで、水面下はあの世だったり、非生活だったり、植物状態としての自分だったりする)へ沈んでいく。そうしているうちに、おそらく感覚器と脳の違いをはっきりと認識するときが来るだろう。つまり耳で聞くのではなく脳で聞くのだということ。音楽を聴きながら練炭自殺を試みたとして、そのある一時点で聞いたフレーズが、そのあとに続かずに(耳はきちんとその音を拾っているはずだが)、そのフレーズで延々とリフレインをくりかえし、くりかえしつつ、恐ろしいものに変形していく。そしてそれに伴って「自分で自分が制御できなくなっていく」ということを強く自覚し、なんとか制御状態に戻ろうと焦ってパニックに陥るだろう。僕が初めて飛行機に乗ったとき、離陸時の加速が恐ろしかったことを覚えている。それ以上速くすると、もう戻れなくなるよ!と怖くなったのを覚えている。そしてパニックに陥りそうになる。パニックに陥れば、せっかくうまくいっていたことが、逆にめちゃくちゃになってしまったりする。例えば「チャーリーとグレート・グラス・エレベータ」http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/customer-reviews/-/english-books/0141301120/249-0077908-7493132で、ぐんぐん上昇していくエレベータの中でパニックに陥った老人が、今すぐ地上へ戻せといって操作するMr Wonkaの邪魔をして、余計にエレベータは制御不能の状態に陥ってしまった、というのと同じだ。身を任せていれば、他人が何とかしてくれる、という悟りに至るのは非常に難しい。練炭自殺の場合であれば、もう自殺することに決めたのだから、ばたばたしなければ楽に死ねるのに、最後になって、自分が自分を制御できない状態を味わうと、かなりの人がパニックになるのではないだろうか、と想像する。もし、生から死へとデジタルに移行できるのならば怖くないのだけれど、たぶん、その間の、「もう生へは戻れない、だけど意識はある」という恐ろしい状態が、わりと長く続くのではないか。そして、そとから名前を呼ばれ、それは恐ろしい形に変形しているかもしれないにせよ、聞こえているのに、こちらからは「うん」とか「はい」とか、声に出していえない、どう頑張ってもそれだけのパワーが出ない、という状態というのは、ずいぶん有り得るのではないか。
 深み。に沈むことからずいぶんとおい話になってしまった。だけど、こういった、あるバッドトリップ状態における幻覚みたいなものを、自分の体験としてしないかぎりは、彼の詩はかけないだろう、かこうとしても、胡散臭い模倣に終わるだけだろうと思う。逆に、それだけ強烈な体験が、身に沁みているからこそ、彼から出てくる言葉が我々のイメージを恐ろしく喚起するのだろう。(もちろん、その体験の受け取り方や表現の仕方には才能が必要だということも書いておかねばならないだろう)。そのような幻覚が、最後には「コイビトノカゲ」や「揺」に結びついていくのではないだろうか、となんとなく考えた。



+


■崖をのぼる水 http://www.rondz.com/poem/poet/10/pslg9340.html#9340 まず読んできてください。






































































この詩を前に僕は何を語ればいいのか。
これだけの[すきとおり]、[しずけさ]をまえにして、何が言えると言うのか。




それでも語り続けるのが僕のやりたかったことだし、そもそも感動を伝えるということの不可能性を前にして、でも感動を伝えるということに近づいていくこと、たとえ、ジャストじゃなかったとしても、最小二乗法的に―かっこ悪いしださいけれど―感想の言葉をいい続けることによって、何かしら感動が形になるかもしれないし、それは自分にとって素晴らしい経験だし、ひょっとしたらその感動は他人にも伝わるかもしれないし、もし感動が他人に伝えられるとしたら、それは、それこそそのために生きる価値のあるってもんじゃないか。

この文章を書くに当たって客観的評価を下している場合でも、それはその前に「僕の目には」というのが必ず省略されているのだと思って読んでいただきたい。それを前提として僕はこれを書いている。なんとなれば、僕は「客観的な詩の良し悪し」なんてないと信じているからだ。人が、「客観的な詩の良し悪し」と信じているものは、実は、「その詩が人に与えた感動の深さ」を感動した人の数だけ総和を取ったもの

  Σ  (詩がnさんに与えた感動)
n=読者全員                     

にすぎないのだと信じている。そしてこの数値には、たいして価値はない(かもしれない)と思う。すくなくとも、この数値が一番重要だと頭から信じてかかることは、早計だ(極言すると、多くの人を浅く感動させる作品と、少ない人を深く感動させる作品であれば、後者のほうが素晴らしいだろう。これはちょっと極言に過ぎて、もっと慎重にこの問題は話さなければならないが、分かりやすさのために極端な例を挙げておく)。それではなにがもっと重要なのかというと、総計をとるまえの、「詩がだれかに与えた感動の深さ」じゃないのか。誰かがある詩にものすごく深く感動したならば、その詩は他の誰かを思いっきり深く感動させる「可能性」がある。僕がここでやっているのは、その可能性に賭けた賭けである。

ひょっとしたら彼の詩を面白いと思わない人がいるかもしれない。それはそれで仕方がない。逆に、僕のこんな文章を読んだから、それがへんな先入主になって、彼の詩を自由に味わえずつまらなく感じる人がいるかもしれない。それはほんとうに有り得る話で、僕のこの文章なんて(全部じゃないけど)非常に無粋な類のものだ。ある詩を読んで、それのよさをフレーズごとに解説する?馬鹿にするんじゃない。おめえはそんなに読解力ってやつがあるのかよ。それどころかおまい、全然読めてねーじゃん。そういう感想をもたれるかもしれない。僕が馬鹿にされるのはぜんぜんいい(面と向かって言われると傷つくけど)。それより、彼の詩に先入主がつくのはあまりよろしくないかもしれない。だから、ここで僕の感想文を読む前に、詩を必ず読んできてほしい、といつも思いながら、書いている。

崖をのぼる水の話に戻る。僕はこの詩ほど透明な視線を感じる詩に出会ったことはないし、おそらくこれからも会うことはないだろう。この詩は、この特別な「老いた少年」にしか書けないものだから。かれの、まるで杖をつく老人のような、静かな諦めの視線は何か。生前と死後のあいだのような、このしずけさは何か。

1.
透明な水たちが
泡立っている
泡立ったまま
崖をのぼっている

この比類ない映像。逆流する滝、と一言で表現しない。滝とはここでは呼ばない。「泡立ち」を繰り返して、読むものにリズムを与えると同時に、映像もまた鮮麗なものとして与えている。

2.
その崖は
かつて

と呼ばれていた

の下にできる
水の窪みは
それは
滝壷
と呼ばれていて
毎年
秋になると
恋人が
大きな家族が
子どもたちが
孤独を裸にさらした人々が
笑いながら
あるいは
笑いを噛み殺しながら
そこに
消えていった
跡形もなく
いや
高く
何処までも響き
しかし一瞬で消えてゆく
笑い声だけを
夜に残して

冒頭を見ると、

 その崖は
 かつて
 滝
 と呼ばれていた
 滝
 の下にできる
 水の窪みは
 それは
 滝壷
 と呼ばれていて

ここで初めて「滝」という言葉が出る。「呼ばれていた」といい、もういちど「呼ばれていて」と言う。われわれの視線はまず滝を見、次に下がって滝壺を見るだろう。改行のなせる魔術だ。これをもし淡々と書いてしまうと
 
「その崖は、かつて滝と呼ばれていた。滝の下にできる水の窪みは、それは滝壷と呼ばれていて」

これではただ定義を読まされているだけであり、「滝の下にできる水の窪みはそれは滝壷と呼ばれていて」に至っては馬鹿にするなそんなこと誰でも知っていると怒る人もいるかもしれない。つまり、改行しつつ滝と滝壷のわざわざ定義を繰り返すのは、定義したいからではなく、改行に従ってゆっくりと読むに従って、読者に映像を喚起するためではないか、と言う気がする。そしてそれは魔術的に成功しているのである。
恐るべき魔術がまた次に待っている。

 秋になると
 恋人が
 大きな家族が
 子どもたちが

ここまで読むと、普通、彼らは楽しそうに滝までピクニックに来て、滝壷の近くでお弁当でもひろげるのだろうと思うだろう。しかし、彼らは、

 そこに
 消えていった

死ぬのである。驚きである。このピクニックから自殺を繋ぐ部分は実に素晴らしい。ピクニック的な明るい要素を(+)、自殺的な暗い要素を(−)として、その明から暗への巧みな移行を見よう。

 秋になると
 恋人が(+)
 大きな家族が(+)
 子どもたちが(+)
 孤独を裸にさらした人々が(−)
 笑いながら(+)
 あるいは
 笑いを噛み殺しながら(−)
 そこに
 消えていった(−)

「笑いながら(+)」から「あるいは」を経て「笑いを噛み殺しながら」(−)への、切り返しの何という鮮烈さ。前者の(初読では)明るい笑いと、後者の狂った笑い。「笑い」という共通の記号を介して、詩をダイナミックに展開させている。

そして、

 跡形もなく
 いや
 高く
 何処までも響き
 しかし一瞬で消えてゆく
 笑い声だけを
 夜に残して

この映像もまたすさまじいものだ。ここでも、さっきと似たような、+から−へ切り返して展開していくのと似た、矛盾しているような表現がある。

「跡形もなく(正)」→(いや)→「高く何処までも響き(反)」→(しかし)→「一瞬で消えていく(正)」→「残して(反)」

僕は「死の一瞬が永遠のように長いのだろう」という感想を抱く。
而して矛盾しているように見える表現は詩へと止揚する。(詩揚?)

3.
遊歩道を
かつて滝と呼ばれていたものへの
細い
遊歩道を
登りきったところに
青い
プラスティック製のベンチがある

僕は
そこに座って
あたりの木々を見ている
もしくは
あたりの木々から落ちてくる
不意の笑い声を
見張っている
と言ってもそれは
酒を飲みながらのことであって
つまりは
気休め
それでもしばらく観察した後
その様子のないことを
僕の感覚は伝え
崖をのぼっていく水に
じっと
焦点を合わせた後
僕は本に眼を落とす

僕らはこの改行の多い文体にそって、ゆっくりと少年と歩みを合わせて歩いていく。青いプラスティック製(!)のベンチが見えるだろう。そして次の部分の美しさ。

 僕は
 そこに座って
 あたりの木々を見ている
 もしくは
 あたりの木々から落ちてくる
 不意の笑い声を
 見張っている

これは先ほどの「『笑い』と見せかけて『噛み殺した笑い』」と同じ、くりかえしと見せかけて実はくりかえしではない展開をとっている。重心は後者(噛み殺し笑い、笑い声の見張り)にある。その、くりかえしによって不気味なものを隠したり覗かせたりするのが、ドキッとして素晴らしいです。「見張る」少年、という例の構図。このなんという透明な視線。「名前のない風景」でピエロの偽善を確かめた視線であり、「沈黙の部屋」で、「天井や 壁や いろんなものが/僕を押し潰そうとしないか見張っていた」その視線である。昔、天へと登っていった自殺者の笑いが、今、木々から降ってくるかも知れない、というのはすごいはなしで、その時間的射程の広さに思わず打たれてしまう。

 崖をのぼっていく水に
 じっと
 焦点を合わせた後
 僕は本に眼を落とす

この映像効果も大好きだ。僕らは思わず水に焦点を合わそうとするだろう。そして、また膝の上の本に眼を落とすだろう。

4.
鯉の墓は
僕の隣に
しらじらと
灰色
まっすぐ
立っている
カップ酒が
供えてあるが
中身は雨水で
地蔵は
いつまでも
そっちをみて
笑っている
髪の毛のように
苔が生えている
涙のように
苔が生えている

この視点のゆっくりとした移動を見よう。まず鯉の墓(なんでそんなものがあるんだ?)がある。「しらじらと/灰色」に。そして、次にカップ酒を見るが、すごいのはカップ酒、その中身は実は雨水なわけで、少年はそこになんともいえない感銘を受けたのだろう。僕らも感銘を受けるのである。その意外性と、次にそのほったらかされ感。さて、視線は地蔵へ。地蔵。この不思議な存在。子供のようでいて、老人のようでもあり、ただ静かにたたずんでいる。(少年詩人と同じように。) おそらく地蔵は多くの自殺者を「見て」きたのだろう。そっちをみて笑っている/泣いている(!)。この部分の美しさといったら、もう、、、

 地蔵は
 いつまでも
 そっちをみて
 笑っている
 髪の毛のように
 苔が生えている
 涙のように
 苔が生えている

さいしょわらっているのだけれど、苔という装置を通じて、実は泣いているのだという、実に地蔵っぽい(笑)所作を示すのである。この苔という装置が奇跡的にうまく使われていて、そもそもさいしょは「髪の毛のように」と言うのである。レント的5,7のリズムに乗りながら、歌うように、苔が生えている、が繰り返され、実はその苔は「涙のよう」に見えているのである。たまらない。

5.
滝は
いつからか
滝ではなくなった
水は
滝になるのを嫌がった
ので
滝は
ある日の朝
崖をのぼっていく水へと
変わっていた

そして
その日から
その水たちは
笑い始め
笑いつづけた

水たちは
その崖の角度そのままに
空へと
秋の空へと
飛び散っていく
笑い声も
同じ空へ
飛び散っていく

水はのぼりながら、水滴とともに、笑いを飛び散らせている。秋の空へと。そう、自殺者の声が、一瞬にして永遠に登っていった、同じ空へ。これが秋の空だと言うこともしっかりと覚えておきたい。
くりかえしや音韻が自然に繰り出されていて、相変わらず歌が続いている。「滝」のくりかえしのリズムは完璧だ。滝は一行ごとにあらわれ、さいご、ついに例外があらわれる。「滝」という言葉があるべき場所に「崖をのぼっていく水」が変わっているのである。ただ、こうやって形式を見るだけで、驚くべき美しさを持っている。
つぎに、「そ」の頭韻3回と、「笑い」が二回。無理しない美しい頭韻。
つぎに、水が「秋の空へと」「飛び散っていく」、笑い声も「同じ空へ」「飛び散っていく」、美しい(長い)韻。繰り返しだから「韻」とは言わないのかもしれないけれど、何と呼ぼうとこの音楽の美しさに変わりはないだろう。

6.
僕には聞こえない
その
笑い声が
僕は
あたらしくできた
石像のように
本を読んでいる
だけ

僕は
生きている声しか聞くことはないのだ
あとしばらく
もうしばらくの間は

僕を包む木々の上空から
大きな鳥の
羽ばたきが聞こえた
僕は
まだ
それでいい

なんと、今まで聞こえているかのように書かれていた「笑い」は彼には聞こえていないのだと言う。僕は/あたらしくできた/石像のように/本を読んでいる/だけ、である。なんとぴったりくるすばらしい比喩だろう。地蔵のような彼は、しかしまだあたらしい石像なのである。

 僕は
 生きている声しか聞くことはないのだ
 あとしばらく
 もうしばらくの間は

ここの哀しさはもうなんともいえない、筆舌に尽くしがたい。さいごのくりかえしの声を聞け。彼はたぶん、自殺を射程に含めて考えている。今死ぬつもりはない。だけど、「あとしばらく/もうしばらく」のしばらく、がすぎると死ぬのだ。この「しばらく」のくりかえしは、ほんとうに辛い。読みながら、ちょっと涙が出そうになる。「あとしばらく/もうしばらくの間は」。「もう」、の絞り出すような声。

さて、生きている「僕」は、生きている「大きな鳥の/羽ばたき」を上空に聞く。少年はひとりうなずく。「僕は/まだ/それでいい」と。

7.
泡立った水は
あいも変わらず
崖をのぼっていくが
僕は
もう
それでもいい

今日は
よく晴れた秋だ


7、と番号が改めて振られて、しかしくりかえし構造は番号をまたがっている。「まだ/それでいい」から「もう/それでもいい」へ。なにがいいのか。最初は、生きるものの「音」しか聞こえない、僕はまだそれでいい、と言う。次に、崖をのぼっていく水が「見える」のだ。そして僕はもうそれでもいい、という。つまり、少年は今、生と死のあいだにいる。生きているものには死者の声は聞こえないけれど、たぶん崖をのぼる水も見えないはずだ。それが見えている彼は、死に片足を突っ込んでいる。だから、彼は「もう」それでもいい、と言っているのだ。この、呟くような「もう/それでもいい」を読むとちょっと泣きそうになる。そのまえに、「まだ/それでいい」があるからこそ、この、「もう/それでもいい」の哀しさは増すのだ。彼は半分死んでいるけれど、それをもう認めている。じたばたしたりしない。静かな諦め。

締め方は、もう何もいえないです。老人のような、少年のような。つぶやき、呟き。秋の空。ほとんど痴呆の老人のような、今、そこにしかない、美しさをみる視線。


たとえば白昼の公園で、老人が子どもと戯れている。なにをするでもなく戯れている。(「それは笹の葉だよ」「SASANOHA?」「そう、これをこうしたら笹舟になるんだ・・・」「ササ/ブネ!」)その光景がなんだか不思議にうつくしいのは、同じ地上に死にゆくもの/生きにきたもの、この二者のつながりが、孤独なんて言葉も知らない/忘れていられる(主客一致も自己同一もかんがえなくてよい、ただその生にのみ没頭しているから、、、その無言のテレパシーが、言ノ葉にまみれたわたしの目にも、幽かにだけれど、視えているからかもしれません。そして今日も、今も、わたくしたちの恒星から、優しい光は届けられています。


めろめろ09号(02/12/18)http://poenique.jp/mero/09/09.htm、レント氏18歳のエッセイ「ゴーゾーさんの詩集について」より



+



■<ぺんぎん> http://www.rondz.com/poem/poet/10/pslg9643.html#9643 冒頭

三回目のセックスが終わった後
彼女は突然
「わたし <ぺんぎん>になるの
と言い出した

「くうーくうー きゅーきゅー
彼女はもう鳴きはじめている
いつも こんな感じだ

「くうーくうー きゅーきゅー
がかわいいですね。
 いつも こんな感じだ
と言うからには、いろいろ裏にありそうで、その想像が楽しいです。





■寒い真空の下 http://www.rondz.com/poem/poet/10/pslg9644.html#9644

くりかえしのリズムに乗っかって現われるふとした意外性。

汚れた顔で
汚れた顔で
汚れた顔で
立ち尽くす
汚れた顔で
笑ってる
僕と
君と
遠くから来た
優しい巨人

優しい巨人、というどこからともなく出てきた存在が面白い。面白がっていいのかどうか分からないが。

()のなかに現われるふとした意外性。一見矛盾した状況の描写にじつにうまく使われている、()かっこ。

立ち尽くしたまま
赤ん坊(巨人)が
泣いている
(鳴いている)

巨人であり同時に、赤ん坊でもあるもの。このあたりから、なんとなく「揺(yu)」の匂いがし始める。

『悲しみ』を
喋らないか
僕と
君と
なんだか
よく分からないものたちで

これこそまさにレント節というやつで、たまらなく好きだ。このリズムに乗る短い音節、そして「なんだか/よく分からないものたちで」。例のかわいらしくもかっこいい倒置。

詩の最後の方に、ついに詩の形が崩れるのだが、もはや詩と呼べるのかわからない世界へと跳び始めている。無調の世界に音楽が飛んだように。しかし、それにもかかわらず(そう、彼があれほどまでに維持していた「歌」(音楽)を放棄したにも関わらず)、なにか、つよいものが伝わってくる。これが、たぶん「コイビトノカゲ(戦闘)」で爆発する系譜だ。詩と呼べそうであろうが、なんだか詩から離れたように見えようが、強いものを伝えるのであれば、それで芸術と呼べばいい。しかし、ここにおいては「コイビトノカゲ(戦闘)」のように叫びを閉じないで終わるのではなく、最後にきちんと意味の通る言葉が置いてある、と言うことは見逃せない。彼は客観的に世界を見る冷静な視線をうしなっていない、取り戻している。

寒い真空が
僕らの上で
渦巻いている




■夜の副作用 http://www.rondz.com/poem/poet/10/pslg9830.html#9830

炸裂するイメージ。むき出しの神経的な。最初の文章で、日常風景の中で『わたし』が狂っている作品」と、「舞台自体が狂っている作品」というふうに分類してみたが、これは、「『わたし』が狂っている作品」のほうであろう。

<うつ>をころしたいなら
羊の眼球で着飾ればいい
<うつ>をころしたいなら
蛙の内臓 耳に詰めればいい
<うつ>をころしたいなら
瘤のついた静脈で縄跳びすればいい

最後のがすごいなと思う。見事に鮮烈にえぐい。視点が自分のからだの中へと向かっている。外を見ていない。



■無題 http://www.rondz.com/poem/poet/10/pslg9831.html#9831

例のくりかえし系、しかしこれはユーモアではなく前作に引き続き剥き出し神経系。


三角定規で歯の神経を抜く

あいったたたたとおもう。よりによって、三角定規をえらんでくるあたりのセンス。すさまじいイメージ喚起。直接に来る痛感。



■青空 http://www.rondz.com/poem/poet/11/pslg10019.html#10019

なんともいえぬ世界。ゆっくりと音読しながら世界を考えてみると、いろいろなものが浮かんで面白い。1聯はもちろん、ゆっくり音読して、馬の臍という表現の意外性とすてきさにやられるのですが、2聯のくりかえし構造+体言止を見落とすわけにはいかない。くりかえしによって例のおさな/かっこよさが出てきている。しつこいといわれるだろうが、ちょっと示してみよう。

どこかの公園で鳴る鐘の音
どこかの公園で
鐘の中に入って遊ぶ老人
鐘をつくのは子ども
街に住む
100人の子ども

くりかえしがかぎのように次の文章を開いていっているのが見える。なによりも、すべて体言止で、なんともいえない空白の沈黙があとに残されるようになっている。いや、やっぱりすごいのは、鐘の中に入って遊ぶ老人というナンセンスさで、そんなことをして楽しいのか!そして案の定その鐘を子供が突きに来るというマサルさん的展開である。しかもただのこどもではない… 100人の子どもだ…! というわけである。おもしろい。最後の聯の見得の切り方はおなじみのくりかえし構造によるおさなかっこよさである。



(続く)



2005/8/14,15,16,17; 9/30 改稿


散文(批評随筆小説等) 生前と死後のあいだで/小林レント讃3 Copyright 渡邉建志 2005-10-01 01:21:22
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