ある15歳の経路/小林レント讃1
渡邉建志

はじめに

・引用が多いですが、まず詩全文を読んでから本文を読まれることをお勧めします。まず、先入主なしで、詩を読まれたほうがよいと思うためです。

・このシリーズでは主に小林レント氏の14,15歳(1999年6月〜12月)の作品について取り上げています。小林氏は現在も詩人として活躍されており、2004年8月26日に第一詩集「いがいが」http://www.midnightpress.co.jp/publish/book/083.htmを上梓されました。amazonでもhttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4434046667/qid%3D1094398988/250-7959417-7532261買えます。彼の魅力を全方位的に詰めこんだような、素敵な詩集です。



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先日こもん氏の短歌と詩"move"について、一貫した生得の可愛らしい口ぶり、雰囲気、ひらがなの、について書きながら(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=49631)、私はその可愛らしい口ぶりの連想として、なんとなくある14、5歳の少年の作品について思いをはせていた。声が聞えてくる、映像が見えてくる、しかもそれは、ア・プリオリに、生得のものとして、かの少年の中にあるものである、ということ。詩の言葉を書いているのではなく、彼の言葉が詩である、ということ。「詩人は詩人になるのではなく、詩人に生まれるのだ」という考えを、私はレント作品に触れるたびに抱かずにはいられない。そして私は永遠に自分が詩人たり得ないことを悟る。なぜなら私は詩人に生まれず、彼のような詩の言葉を持って生まれた人に感嘆し続けるしかないからだ。たとえそれが彼にとってうれしい言葉でない(時に迷惑ですらあろう)にせよ、私はそうに言わずにはいられない。

はじめ、可愛らしい口ぶりで可愛らしい内容を歌っていた少年が、徐々に初期ルドン的、あるいはシュヴァンクマイエル的幻想に沈み込んでいき、ついに爆発してしまう、その一つの悲しい、美しい経路。それは投稿日時を追う限り1999年6月から1999年12月の6ヶ月という非常に短い期間のなかで行われている。その濃密な時間に、僕はずっとずっと憧れてきた。



■生きてる http://www.rondz.com/poem/poet/4/pslg3315.html 全文 99/6/26-03:09投稿


ポム ポム ポムと 手をうてば

ポム ポム ポムと 鳴るのをきいて

そしてあなたは  生きているよ と

誰にともなく 言うのです


どこか遠くを みつめながら


75調の可愛らしい口ぶりがかわいらしい(後に彼は75調を捨てることになる)。ポムポムポムと読む少年の声が聞えてきてならない。可愛らしい内容であるが既に不安の影が最終行に隠れている。とても素朴な形として。



■砂のひととき http://www.rondz.com/poem/poet/4/pslg3387.html 部分


ああ 今日はこんなに
波もない海 しずかだ


この詩も75調のリズムに乗った、揺れるような(揺れるという現象はレント作品において重要な要素だと考える)雰囲気、くちぶり。引用部の「こんなに/波もない海 しずかだ」に、のちのレント作品の絶対的静寂の原型を見つけることができる。「ああ」という言葉が、この少年の口から発せられるとき、僕には「日本語にはあまりあわない」と思われる、この感嘆詞が、まったくわざとらしく感じないことに、おもわず、ああ、と漏らしたくなる。



■白い日 http://www.rondz.com/poem/poet/4/pslg3464.html 冒頭


あんまりつづけて
空から白紙が 降ってくるので
人々は 狂乱した

『こんなにたくさんの紙を 
 埋めるだけの言葉を
 私達は持っていない!』



一人の詩人は 窓からその様子を見て
笑っている 気持ちよさそおに


このデ・キリコ的世界(これだけ少ない言葉で我々の頭のなかに豊かな映像を喚起するのは凄いことではなかろうか)の中で笑っている詩人は間違いなくレント少年である。彼は笑う 気持ちよさそおに。「気持ちよさそおに」と書かれたとき僕は普段嫌悪感を抱くはずなのだが、どうしてもこの少年が書くときにはその口ぶりが聞えてきて、その伸びる声が聞えてきて、たまらなくなる。ここは「お」でなくてはならないのだなとおもう。



■月の下に一人でいる http://www.rondz.com/poem/poet/4/pslg3465.html 冒頭


月の光は 目の前で止まることをせず
一人の人間の 二つの水晶体を
つきぬけている


15歳のやさしい/やさしい語彙のなかに、ときどきふと現われる彼の氷のような詩語が、きらめく。この詩を後のほうまで読んでいくと、もう一つ彼の詩語が現われ、口ぶりの優しさかわいらしさとそのギャップに、私ははっとしてしまう。それにしてもこの歌うような題名が好きです。これだけでこの少年の声が聞えてきませんか?



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■スピード スピード http://www.rondz.com/poem/poet/4/pslg3572.html#3572 部分


線路はなくとも 
列車は行くのだ
細かな部品を まき散らしながら
はしって行くのだ



全体としては幸せな詩だが、既に脱線していることに作者自身は気付いている。気付いているのだが単純バカ的に幸せでもある。だから単純バカではないのである。危うい二重性は、まだ単純な幸せが勝っていて、文体も後の星間物質的爆発は伴っていない。



■ふたり http://www.rondz.com/poem/poet/4/pslg3618.html#3618 冒頭


ひとりぼっちが ふたりあつまり

ふたりぼっちに なったかといえば

そういうわけでもなく


言葉遊び的要素が言葉遊びに終わらずに、つまり表面的な意味や音韻的遊びにとどまらずに、何かしらあたたかな膜のようなものを持ちはじめる、レント作品のなかにたくさんの言葉遊び的なものを見出すことができるが、それがそれぞれにまた意味を持ちはじめるところが僕はすきなのだ。この詩においてこの一聯の言葉遊び(不協和音)があとあとに温かい解決を導き出すことになる。「そういうわけでもなく」が好きだ。



■スポットライト http://www.rondz.com/poem/poet/4/pslg3684.html#3684 部分


光は僕の 脳のあたりを突きぬけた
そこからは いろいろなものが 吹き出てきた


ここに、ひとつの爆発的イメージが初めて現われる。脳から吹き出てくるいろいろなもの。こののち脳は歩いたり爆発したり裏返ったりすることになるだろう。そういった系統のものと、可愛らしい遊びがまだ並行して歩いていて、先ほども言ったとおりまだ可愛らしいものが重心に近い場所にいる。



■猫(にゃあ)http://www.rondz.com/poem/poet/4/pslg3725.html#3725 部分


この街に夏はきた いつの間にか


梅雨との交代は
なめらかに行われ
誰も そのことに気づかなかった

草木のにおいが 変わった

空がまた 高くなった

みんなが海に 恋をはじめる

わらびもちのおじさんが
南の方から 歩いてきた


わらびもちのおじさんがいいなあ、と(意外に)思ったのだけれど、意外に、というのは、僕の中にあるレント作品のイメージに、南の方から歩いてくるわらびもちのおじさんが存在しなかったからだ。そののどかで日常的な風景が意外で、でもなんだか好きな感じだと思った。それはさておき「誰も そのことに気づかなかった」というのがたぶん重要で、実は少年は気づいるのであって、「誰も」VS少年の構造が「白い日」と同様にここにはある。また、この構造はのちのち出てくるのであって、いつもこの少年詩人の立ち居地が不思議でありまたよく分からない(詩人は時空間と同一ゝゝゝゝゝゝのものであるようにすら思えてくる)。これは前こもん作品について書いたことでもあるけれど。



■嘘 http://www.rondz.com/poem/poet/4/pslg3812.html#3812 部分


『やっぱり』 僕は全然悲しくなかった
でも僕はその
<『やっぱり』 僕は全然悲しくなかった>が
  悲しかった


レント作品を、「日常風景の中で『わたし』が狂っている作品」と、「舞台自体が狂っている作品」というふうに便宜上分類したとき(本来舞台を認識しているのが「わたし」である以上この分類はおかしいという批判は大いに有り得るんだが)、この作品は後者であり、これをレントSFなどと呼びたい。この系譜のいちばん上に来るのが「白い日」であったのかもしれない。このあとにはたとえば「名前のない風景」の強烈な電車の舞台が待っていることだろう。引用部を見ると、ここには構文上の遊びがある。のちに「微笑の風景」を経て「揺(yu)」後の図形的詩文に至る系譜の原点をここである。僕の個人的な好みでは、この崩れそうで崩れないぎりぎりの構文上の遊びが好きである。例えば、スクリャービンが和音を積み重ねていって無調に至る時、初期の調性ばりばりの時代はあまり面白くないし、後期の無調は僕にはまだ難しいけれど、中期の調性をぎりぎりの土壇場で守っている世界がこの世のものとは思えないほど美しいと僕には思える。それに似て、僕はその、ある文法が崩れるぎりぎりまで行った「揺(yu)」がいちばんすきだ。しかしそれはまだ後にとっておこう。いまここで、非常に簡単な形での言葉崩しが行われ、それが詩の背骨となっている。その言葉崩しを発見した少年の新しい視線がここには眩しく感じられるのではなかろうか。



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■裏返す http://www.rondz.com/poem/poet/4/pslg3918.html#3918 部分 まず全文を読んでください











それがふわっと
世界中に広がってゆくとか
そんなこともなかったので
裏返ってる僕は がっかりしてみたが


ここで初めて出てきた裏返るイメージは今後彼の詩のモチーフとして何度か現われることになる。
この詩では最初は袋を裏返して、「色が悪」い。裏返りの印象は残るが、対象自体はそこにとどまっている。次に汁が飛び散って対象はこちらへ飛んでくる。さらに次はにおいまでやってきて、出てくるものも気味が悪くなる。最後には「僕を裏返」すと「いろいろ いらないもの」まで出てくる(多少の自虐ゝゝゝゝゝ)。この並び方が、加速していくみたいでいいと思う。そして愛を裏返して、その加速を急に止める。何も出てこない。で、引用部に至る。「ふわっと」がいい。そこの改行で少年のふわっとという声を聞き、なんともいえない浮上感を味わうのだが、次の2行で軽〜く否定されてしまう。そのへんのかわいらしさったらない。次に、「裏返ってる僕」がもう一度登場して、「がっかり」してみせるあたりのユーモア感がとても好きです。で、結局、「うれしかった」と、たぶん本当にうれしそうに彼は言ったんだろうなと思うのです。



■暗い感覚 http://www.rondz.com/poem/poet/5/pslg4027.html#4027 部分


暗い感覚
歯がぐらぐらしている
抜ける筈もない
歯がぐらぐらしている


レント氏の詩は痛覚に直接来ることがある。この詩のラストは非常に痛い。本当に痛い。引用部は痛い方向へ走り始めるスタート地点である。このくりかえしを見よう、このくりかえし自体がぐらぐらしているようではないか?のちのちの作品に時に現れる薬にイったパンクスのようなイメージがここに既にある。怖さは不思議と感じない。ただ痛みだけがある。怖さは未来を恐れることにあり、現在しか感じないのであれば、それはただ痛みなのだ。常に現在で爆発する感覚。それが僕のレント作品への感想の核のようなものだ。



■プラスチックソウル http://www.rondz.com/poem/poet/5/pslg4028.html#4028 

「夜の底を這ってゆ」き、「高い所」へ登ろうとして、失敗して「ぺちゃっ といやな音をたてて」いるのは、「僕の魂」である。魂という触ることのできないはずのものが、こうやって形を与えられて運動しているようす。そしてそいつはぺちゃっ といういやな音をたてるということ。臆病で、壊れやすいということ。一つの自虐的なイメージ。こうやって自分のある特殊な部分、マインドやソウルに関わる部分を一人歩きさせて、それをもう一つ、自分を見つめる目が、見つめている。それはユーモアではあるけれども、のんきに笑っていられない。例えば「コイビトノカゲ(戦闘)」の脳もそのような一見可愛らしい存在であるが…これはまた後の話だ。



■悲しい液体 http://www.rondz.com/poem/poet/5/pslg4294.html#4294

ここにも「誰も」VS「僕」の構造がある。「みんな気づかない/気づかない/気づかないふりをしている」とふりを見抜くのは「僕」である。舞台設定が異常な例の一つである。SFとまでは言わないとしても。湾岸戦争のような。



■ブルー http://www.rondz.com/poem/poet/5/pslg4340.html#4340 冒頭


53階調ブルーの世界に生きている


数字もまた魔術的な響きをもって彼の詩の世界を彩る。53階調の世界が広がる。53枚の扇を広げるように。たぶんここにあるのも「悲しみ」、なのだろうか。「僕らが涙を 流したぶんだけ/海の水が へっていることを知って」いるから、涙は流さないけれど悲しいのだろう。悲しみが基調なのだけれど、そこにひたすらに閉じこもることはない。そこから出て行くレトリックやイメージがある。それがすきなのかもしれない。



■動物ですので http://www.rondz.com/poem/poet/5/pslg4405.html#4405 部分 これはぜひ読んできてください


動物ですので このへんで
自分を誉めたり しちゃったりして


くりかえしパターンもまたレント作品にときたま現われるもので(例えばヤーhttp://www.rondz.com/poem/poet/22/pslg21669.html#21669、ムジナがhttp://www.rondz.com/poem/poet/22/pslg21735.html#21735)、ここにおいて彼は悲しみや爆発よりも、彼独特のユーモアを前に押し出していて、それがすきだ(だからこそ悲しみや爆発がにじみ出てきたりするのが不気味であったりもする)。上の引用部なんか、突然出てくるあたりで可愛らしさが満開である。



動物ですので
もう起きなくちゃあ なりません

動物ですので
生きるしか僕には ありませんが

僕は動物ですので
生きていこうと 思うのです


生きる理由なんて、その程度に理由付けすれば十分なのかもしれないな、と思います。



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■浮かぶ雲と泣き声 http://www.rondz.com/poem/poet/5/pslg4666.html#4666 部分


ああ 雲に欲情しちゃ いけません
あれは そんな ものじゃあ ないのです


中也的な歌うような口ぶりはここだけ見ると単純なものかもしれないが、ずっとそれが続いているのをゆっくりと読んでみたときに、発狂し始める瞬間がそののんびりした時間の流れの中に、突き立っていく。「怒った叫びにきこえる!/笑ったようにきこえる!」狂っていくなかでさえ、叫んでいるときでさえ、歌を忘れてはいない。それによって余計に迫ってくる何かがある。迫った最後に ふ と落とす力加減が素晴らしいと思う。


結末

泣き声が 死ぬ
泣き声が 死ぬ 死ぬ
泣き声が 死ぬ!死ぬ!死ぬ!


いま 雲も死んだ?
いえ
ただ そこに 浮かんでいるだけです


死ぬと叫んだ後に、常体で短く叫んだ後に、つながるのは静かな敬体の口ぶりである。そのはげしい温度差の見事なこと!

そして絶対の静けさだけが、最後に残されていく。死よりも真空。



■僕は今から戦争へ行くんだ http://www.rondz.com/poem/poet/6/pslg5036.html#5036 結末


「僕は今から人を殺しに行くんだ」
若い男は薄い唇で そう言った


閉じた小宇宙。読者に直接につながる痛感。痛みはこの唇の薄さにいちばん感じる。薄い唇というこの言葉がたまらない。過剰ではない程度に不気味だと思う。



■気弱な僕 http://www.rondz.com/poem/poet/6/pslg5145.html#5145 結末 全部読んできてください












(一週間前
 恋人を裏返してひどい目にあい
 すっかり気弱に なった僕  )


ここに例の裏返しのモチーフが現われる。が、気持ち悪いものではなく可愛らしさが表に出ている。気弱な僕って題名が凄いいい。裏返した恋人がどうなってしまったのか、気になるところだと思う。



■ひきだしの奥 http://www.rondz.com/poem/poet/6/pslg5146.html#5146 全文


失くした指輪を探して

ひきだしの奥を さぐっていたら

手に 青い どろどろの液体がついた


ああ こんなところに居たのか

僕の悲しみ




ひさしぶり


この詩は本当に好きです。可愛らしさと気持ち悪さがとても上品な形として、うまくまとめられたというか。前に夜の底を這っていたプラスチック・ソウルがありましたが、たぶん「僕の悲しみ」も似たようなかたちの不定形なのでしょう。ここでなんともいえないのが、最後の3行です。「僕の悲しみ」に呼びかける少年の声です。「ひさしぶり」です。どろどろのものがひきだしの中で手に付くんだから、気持ち悪いはずです。しかし、ひさしぶり、と呼びかける様に、気持ち悪いという感情のかけらも感じないのです。むしろ悲しみに対して優しい感情がある気がするのです。結局は一人の会話なので、とても寂しいのだけれど、その寂しさがなんとも言えない。



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カポーティの出世作の原題は"Other Voices, Other Rooms"(23歳の作品である)だが、誰が名付けたか、訳題は 『遠い声、遠い部屋』だ。大好きだ。遠い部屋というのがすきだ。声は聞こえているが、彼は遠く部屋の(片面だけ)透明な壁によって隔離されている。我々から彼の姿は見えるが、声は届かない。逆に彼は我々の姿を見ることはなく、声をこちらに伝えるばかり。手を伸ばせない我々は悲しいし、部屋に閉じ込められた彼も悲しい。そんな絵が思い浮かぶ題名だと思う。内容は忘れた。



■和解へ http://www.rondz.com/poem/poet/6/pslg5325.html#5325 部分


女が走る 男が走る
両性具有が走る
みじめな老犬だって
なめくじだって 走る!走る!


リズムが重要になりつつある。リズムをつけるためにそしてそれを走らせるためにたくさんの1文字スペースがある。リズムをつけるためのあるいは歌うためのくりかえしもある。(トカゲが走る/トカゲの群れが走る/子供が走る/子供の群れが走る) そうしたさまざまな前のめり構造の中で、横滑り型脳細胞は女、男を走らせた後ついでに両性具有を走らせてみたりする。その意外性というかちょっとだけ飛躍した連想性は、これは彼のユーモアなのだけれど、読者は単にからからと笑っていられなくて。笑っていると置いていかれる。

この詩にあるのは意外と単純なくりかえし構造なのであるが、そこに声を聞き出だすとき、それを稚拙や単純といって笑うことはできない、ように。

そこにはたぶん歌があるのだ。読み手の受けを見計らうための間など存在しないのだゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝ。読者などほうっておいて、歌は続かなくてはならぬ。

(曖昧な仮説:ここで読者をほうっておいて歌を歌い続けるということは、ある意味の余裕を持たないということである。余裕を持つということは、技巧を持っていて、その技巧がそのように読者や詩文に効果を与えるかを計測する余裕を持つということである。しかし、内容のほうに一生懸命になっている詩人に、そのような計測の余裕を感じることはできない。わたしはその種の余裕は好きではなく、ひたすら「表現される内容」に一直線に突き進んでいく姿勢のほうが好きだし共感できる。もし、「技巧と内容」論について僕が何か言うことがあるとすれば、そのようなものになる。極言すると、ある内容を表現したいがために破壊されてしまった技巧が好きだ。)



■室内の風景 http://www.rondz.com/poem/poet/6/pslg5394.html#5394 結末


その光から逃れるように
一匹の蜘蛛が 這っている
一つの秘密の 隠蔽者
注意深げに 這っている

ベッドシーツの青の上
その感情の すぐそばを


スペースが拍を打つ。そこにあるのは中也的75調であったとしても、その内容はもうちょっと神経繊維のような匂いがする。この最後のとことん徹底した75調、その徹底こそが重要なのだ、徹底してこそ読者を振り払うことができる。先を悟られてはならないのだから。読むほうも精一杯ついていこうとするときに、詩人の新しい感性に触れることができるのかもしれないのだから。繰り返すが、徹底した75調は単調でばかげたものになりやすいが、ここではその徹底が人の笑うことを許さないだろう。「その感情の すぐそばを」 このsの頭韻的連続は気合から発したものではないか、と軽口を叩いてしまう。



■冷たい浮遊 http://www.rondz.com/poem/poet/6/pslg5502.html#5502

ここでも75調が貫かれていく。そしてくりかえしによる歌がある。それらのゆりかごに揺られているうちに、ふとした落とし穴が控えている(一つ 寒天質の冷たい音が/香った)。落とし穴の底から霧が発生してくる。その霧の解釈はもはや読者にゆだねられている(その濃さ、その時間の長さ)。すべてを語りきらないこと、論理性の穴から発生してくる霧のことを詩情と呼ぼうと、初めて彼の作品を読んだときに僕は勢いいさんで宣言したぐらいだった。



■沈黙の部屋 http://www.rondz.com/poem/poet/6/pslg5534.html#5534

赤の発作。その沈静。その結合。その谷間の幅。「何も無くなったのだ/ / /全ては静かに進行していた」。霧。

それでいて僕は頑張っている。可愛らしいほどに頑張っている。「僕は部屋の中心に居て/天井や 壁や いろんなものが/僕を押し潰そうとしないか見張っていた」。



『僕の時間はこの部屋が止まっていることで生まれる』
『この部屋の時間は僕が動くことで生まれる』
意味のない相互関係


あるいは一人で延々と続けられるパントマイム。画面には彼と彼(自身)しかいない。或いは見張り或いは会話する。パントマイム的に。「嘘」におけるセロハンテープで止められたカマキリの喩えもまた無言のパントマイムであったのだろう。一つ一つのパントマイムの孤立性。時間的孤立。空間的孤立。たぶんどちらも。


(続く)






2005/7/31,8/1,2,3,4; 9/30改稿


散文(批評随筆小説等) ある15歳の経路/小林レント讃1 Copyright 渡邉建志 2005-09-30 23:22:43
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