沈黙と怒り/小林レント讃4
渡邉建志

承前

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■雨の中に http://www.rondz.com/poem/poet/11/pslg10020.html#10020

この詩を前にして、いつも思うのは、これは間(MA)の詩だろうなということだ。そこにある音楽のこと。とくに、そこにある沈黙の、取られるべき長さのこと。詩がそのような沈黙の長さを持って読まれる必然性を持っている、ということ。



固い地面に座り込むあなたを
抱き上げることもできずに
傍に座り込むだけ

電信柱によりかかって
座り込むだけ
ただ それだけ


冬のはじめの風が
通っていった後の



例えば冒頭を見て、第一聯をすらすらと読み下した後、「座り込むだけ」の後に続くのはそんなに長い沈黙ではなさそうである。そして第二聯もすらすらと読み下すのだけれど、ここでは聯の途中で短い沈黙が入る、そのタイミングは美しいもののように思う。「座り込むだけ/ただ それだけ」。ただ、とそれだけ、のあいだ。一瞬の静止。その静止の瞬間に「電線から/大きな水の球が落ちてきて/頭のてっぺんで/はじけ」る、だろう。永遠を凍らせたような一瞬について。

 ただ(short silence)それだけ(long silence) 冬のはじめの風が/通っていった後の


音楽について。



僕の詩の言葉は
何の役にも立たずに
じっと傍に座り込むだけ
僕の死の言葉は
何の役にも立たずに
じっと沈んでゆくだけ
雨に



くりかえしはリズムを産むが、そのくりかえしをすこし崩すことこそ曖昧な意味スペクトルやその美しさを産むのだろう。対比ともいえるのかもしれない。たとえば崖をのぼる水の「6.」の後半と「7.」の前半のくりかえし的対比。くりかえしではなくて、意味内容が変わっているし、それが対比によって両方が美しくなる(特に7聯が)。リズムも、「まだ/それでいい」から「もう/それでもいい」と、すこし変わっていることに、音楽が生まれる。もしこれが、「もう/それでいい」だったら、内容的にもリズム的にもかなり落ちただろう。「それでいい」の放棄的雰囲気ではなく、「それでもいい」の諦め的雰囲気であること、そして、音が増えたことによって、そのあとの永遠の沈黙がより豊潤になるであろうこと。この詩にもどる。この詩のいちばん美しい部分は間違いなくここだろう。「雨に」。このとんでもない倒置。「だけ」「だけ」と3行ずつのまとまりの繰り返しがあり、最後にそれこそ投げられるように「雨に」の音声的にも文字的にも短い2文字が置かれること。やや英文読解的になるけれど、この「雨に」は意味的には「沈んでゆくだけ」に係って行くだろう、しかし、なんとなく、絵的には、「雨に」は「座り込むだけ」にも映しこまれていく。音楽について。座り込むだけ、のあとの短い間、沈んで行くだけ、のあとの短い間(!)、そして雨に (それから長い沈黙と雨の音)



僕は笑うことも
泣くこともできずに
じっと座り込んでいる
電線から
大きな水の球が落ちてきて
頭のてっぺんで
はじけた
僕は 眼をつぶった



彼特有の痛覚/触覚に直接やってクる表現、のなかでもいちばんすきなのがこの水の玉が頭のてっぺんではじけるシーンだ。音まで正確に想像できる。そして「僕は 眼をつぶった」の一文字スペースの長さも正確にはかることができる。その間!はじけて、彼/僕が目をつぶるまでの、反射のディレイがこの間なのだ、と強く思う。



+



対象としていた1999年6月から1999年11月の5ヶ月が今回で終わる。ここで「初期」が終わり、無邪気で素朴な文体が消え、練りこまれた複雑な文体が始まるような気がする。これから取り上げる3つの作品は、この2つの文体の強烈な分水嶺であり、その危ういバランスが僕にとって奇跡のような作品たちだ。僕は今感想をかくのがとても怖い。怖かったからなかなか手をつけられずにいた、でももう夏が終わろうとしている―今日は雨が降った。雨にずぶぬれになった私は寒くて、夏が終わったのだなと思った。このレント作品への感想文集は某氏への夏休みの宿題だったから、もうそろそろ書き終えなければならない。


■コイビトノカゲ http://www.rondz.com/poem/poet/11/pslg10300.html#10300 99/11/24-03:09投稿

コイビトノカゲは 真っ黒で
闇と 同化 するのを好み
コイビトノカゲに 重さは 無くて
やはり
闇と 同化 するのを好む

つきはなしたように、百科事典文体でコイビトノカゲについて描写する。くりかえしと、実に効いている「やはり」が、そのつきはなした百科事典の雰囲気をつよくする。ユーモアですらある。そのつきはなしかたが逆に不気味。しかし、

僕は 走るん だ
あの コウモリの ところまで

視点は百科事典的なものから一人称の独白へ変わる。この引用部のリズムはなかなか忘れられない。「走るん」と「だ」の間のスペースの。相変わらず間(MA)について。僕の声が聞こえる、息が聞こえる、さっきまで百科事典であったはずの僕の。焦りはクレッシェンドする。

雨の 底を 舐める コウモリの
指の 先に コイビトノカゲ 憑いて いるから
僕は コウモリの 指ごと 引きちぎって
コイビトノカゲを 食べて あげるん だ

息が荒くなっている。「コイビトノカゲ 憑いて いるから」。内容もはげしくなる。「コウモリの 指ごと 引きちぎ」るという。その激しさ。そしてなんとコイビトノカゲを食べてしまうのだ。「食べて あげるん だ」と言う。太字部の「あげる」が、いまの半狂乱の状態を鋭く示している。例えば(とんでもない安い例だけど)、「殺してあげる」って言って笑う殺人犯も、「あげる」を使っているではないか。そして食べられた「コイビトノカゲ」はたぶん僕から抜け出て他のコウモリの指先に止まり、僕がまた食べに来るのを待ち続ける。体の中に巣食う記憶の恋人を、食べるという隠喩を用いて表しているのだろうか?自分の中の空っぽさを、影を食べて満たすのだろうか。後の「秋空の散文詩」のなかに、

すこしでも腹が減れば何か食べる。体内の空にはかならず
オモカゲビトが棲みはじめるから。オモカゲビトをそんな暗いところに
棲ませてしまってはいけないのだ

という部分がある。このオモカゲビトもまた、とても大切で同時におそろしいなにか存在なのだろう。コイビトノカゲにせよ、オモカゲビトにせよ、このカタカナのとげとげしさはほんとうにとげとげしい。



■コイビトノカゲ(戦闘) http://www.rondz.com/poem/poet/11/pslg10301.html#10301 ←必ず、まず読んできてください


歌=音楽を放棄した形について前に「寒い真空の下」の感想に書いた。再掲しておく。

詩の最後の方に、ついに詩の形が崩れるのだが、もはや詩と呼べるのかわからない世界へと跳び始めている。無調の世界に音楽が飛んだように。しかし、それにもかかわらず(そう、彼があれほどまでに維持していた「歌」(音楽)を放棄したにも関わらず)、なにか、つよいものが伝わってくる。これが、たぶん「コイビトノカゲ(戦闘)」で爆発する系譜だ。詩と呼べそうであろうが、なんだか詩から離れたように見えようが、強いものを伝えるのであれば、それで芸術と呼べばいい。しかし、ここにおいては「コイビトノカゲ(戦闘)」のように叫びを閉じないで終わるのではなく、最後にきちんと意味の通る言葉が置いてある、と言うことは見逃せない。彼は客観的に世界を見る冷静な視線をうしなっていない、取り戻している。

詩の形を失い、素朴な幼い歌はここにはなく、しかしなにか爆発的な強さが核として存在する。詩としてあるいは技巧として感想を述べることは無理だ。もはや全体としてつよいものを伝えているのだから。しかし、やはり思い出すときに強烈に思い出す部分というのは存在するので、いままでどおりフレーズ主義的に感想を述べることはできるかもしれない。それに意味があるかはわからないけど。いいたいのは、とにかく内容がつよいということである。そして、もはやここでは意味のある言葉で閉じられず、叫びは開き括弧でとつぜん断ち切られる。

詩は詩「コイビトノカゲ」に挿入していく形で展開される。先にあった歌は消え、かわりにアクロバット的な文体、文体のための記号が現われる。

DODODO
DODODO
笑う###

たとえばこの#のすごさである。なにかを表現しているのを感じる。

DO(ど)DO(ど)DO(ずー)
の音 たちが・・・(笑ふ(う)・・・)
"せめ" て "きた" 夜は "夜" に"変わっ"た。

たとえばこの(ど)(ど)(ずー)の括弧である。重い音声が()にこめられているような。
たとえばこの(笑ふ(う)・・・)である。あいまいに思い返すような二重の括弧。
""によってころころと変わっていく音/声たち。

"夜" に "夜" に "夜" に "夜"に。、、はハ↑ハ↑ははは。


さらに矢印。そしてカタカナ。この表記の浮上感のすごさ。狂気。侵入してきて以下繰り返される強迫観念的な歌:(指輪を盗め。永遠に。指輪を盗め)。

しかしふと挿入される例の幼い口ぶり

 その夜、彼女の舌はなめらかすぎて、
  僕の手を滑り落ちた。
  ねえ、「何も心配はいらない」よ。
    君は確か昨日、そういっていたもの。)

なめらかすぎる舌が手を滑り落ちるというこの表現はぞくっとします。ここは好きです。次にまた幼い口ぶり(≒歌)に代わって現われるビート。どどずー。しかしそのつぎにまた歌というかナレーションというかが現われる。

キッチンに、脳がおいてあった。
まな板の上に、脳が正座して、考えていた。
夜です。脳はすばらしいことを、
考えられないかどうか考えていて、
ふと、気づいた。
すばらしいことを考えるには、
すばらしいことを考えられないかどうか
考えていて、ふと気づくしかないのではないか、と。

母親は脳を、錆びた包丁で切り分ける。

切り分けられた脳は考えた。
(   )
  ↑×(かける)#∞(#のくっついた無限大)
と。
「何も心配はいらない」 
#(nanimosinpaihailanai)

前に書いたこと。「こうやって自分のある特殊な部分、マインドやソウルに関わる部分を一人歩きさせて、それをもう一つ、自分を見つめる目が、見つめている。それはユーモアではあるけれども、のんきに笑っていられない。例えばコイビトノカゲ(戦闘)の脳もそのような一見可愛らしい存在である」。この脳は可愛らしいけれど、実は自分の脳なのだから、可愛らしいと考えている脳自身なのだという、このラッセルのパラドックス的構造。しかも切り分けられているし、切り分けられながらも脳は考えている。つきはなしてペットみたいに書かれているが忘れてはいけないこの脳は僕なのだ。そして切り分けられた脳が僕だからこそ僕はおかしなことを考え始める。また口ぶりはきえて混濁したビートがはじまる。わけのわからない遊びも始める。

#「・・・・・・・・・・・・・・・・・・
#「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・の差に意味は在るのか(?)

そして危ないリズムは意味を超えて迫ってくる。舞踏のように。

長門峡に、水は流れてありにけり。
(中原中也さん)

水は綺麗だ。
水という文字が綺麗だ。
mizuという響きが綺麗だ。
水mizumizumizumizumizu水
右はらいと、左はらいが、綺麗だ
mizu水水水水水mizu
でも
そんな水、今はいらない。
(指輪を盗め。永遠に。指輪を盗め)。
手に入れた指輪を隠す永遠の#水mizuがほしい。
え?(e?)
「何も心配はいらない」
同じだあ。同じだあ。DODO(よ。)

水にしてもmizuにしても意味的には一回でいいんだからこれだけ繰り返すのはもはや美術的な問題かつ音楽的な問題である。この部分を朗読してみよう。きれいに並んだ間について見てみよう。たとえば(中原中也さん)と声をおとされる一瞬の間。つぎの「の」のあとの期待を持たせる短い間。綺麗だの単純な反復に終わらせない象形文字的な水とmizu。つぎにわがままなことをいう「でも」のあとの長い間。挿入される強迫観念(指輪)。極め付けが「手に入れた指輪を隠す永遠の#水mizuがほしい。」この一行。この#の強さ!その一瞬の間!キーワードを待つコンピュータプログラムのような気持ち。そしてさいごの(よ)はカオスの中にかおをのぞかせる切断された幼い口ぶり。おなじだあよ。と続いたのだろう。切断されながらも独り言の口ぶりは怒りながら現われる。切り分けられた脳の思考。

僕が
C・ブコウスキー(しい・BUKOWSKY)と
FUCKしたいと思っても、
彼(1920-1994)は
FUCKしたいと思わない。
(1920-1994)は
FUCKしたいと思わない。
思わない彼はぜったいにおもわないかれは。
1920-1994!

切り刻まれた中の痛々しいユーモア。たとえばブコウスキーの反転。たとえば死者がFUCKしたいと思わないこと。死者をFUCKしたいと思うことはあってもね。

うさぎ うさぎ ウサギ 兔 兎
月の輪の外の部分をせめてくれ

これは好きなフレーズ。月の輪の外の部分というのがたまらない。せめてくれというのもたまらない。

図形的に次の部分もすごいと思う。

食べて食べられる。
食べたものが胃壁を破って僕を食べる。
それでいいそれでいいい(iiiiiiiiiiiiiiiiii)いいいいい
#(nanimosinpaihailanai)         い
#(nanimosinpaihailanai)         い
#(#(nanimosinpaihailanai))      ⌒
コおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお指
イいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい輪
ビいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいを
トおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお盗
ノおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおめ
カあああああああああああああああああああああ。
ゲえええええええええええええええええええええ永 
遠に。指輪を盗め)。
(ねえ、「何も心配はいらない」よ。
     君は確か昨日、そういっていたもの。)
す(DO(ずー)だ)。よ(DO(ど)だ)。

例えば君は、脳を食べた。

もはや朗読の仕方がわからない。この、オブジェはよくできていて、右端を読んでいくとちゃんと字数もそろって例の強迫的な動機:(指輪を盗め。永遠に。指輪を盗め)になるし、ゲえええええええと叫んだ後にその「え」音のまま永遠に。指輪を盗め)。とよみきってしまえるかっこよさもある。叫んだ後に、さらりと締める感じ。最後の行の、改行してからの「例えば君は、脳を食べた。」の低体温がたまらない。その改行の間(MA)!この叫びは詩「コイビトノカゲ」のなかでも内容が狂いはじめた場所に対応している。「コウモリの 指ごと 引きちぎって/コイビトノカゲを 食べて あげるん だ」のところ。

詩は、悲しいという言葉をコンピュータ的に繰り返すことで終わる。コイビトが発したのであろう「何も心配はいらない」という言葉も、コンピュータ的に意味のない音声として繰り返されるばかりとなる。ビートのDO(ずー)もしまいには(zu--------)ノイズと化す。あとは閉じられない括弧がのこるばかりである。発信され続ける、ノイズと果てた叫び。


(続く)



2005/8/21, 9/11; 10/1 改稿


散文(批評随筆小説等) 沈黙と怒り/小林レント讃4 Copyright 渡邉建志 2005-10-02 00:47:02
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