【家庭の詩学】 #4 「味*素」のはなし
043BLUE


「簡単に言って、料理とは単に舌先だけで味わうものではなく、また弄ぶものでもない。耳から、目から、鼻からと、様々な感覚を動員して、「美」と「味」の調和を楽しむものだと思う。色どり、盛り方、取合せ、材料の良否と、みな「美」と深い関連性をもって考慮されています。栄養の効果という点からも「美」は見逃せない役割を担っています。「味」のことばかりを言って、その背後にある「美」の影響力に無頓着なのが、言って悪いが当代の料理人、料理研究所あたりの大方ではないでしょうか。」   北大路魯山人


○「味*素」のはなし

  前回は、詩を読んだ時の「感動」は、「おふくろの味」のようなものだということを考えました。つまり、「感受性」で生きていたそれぞれの幼年期の「経験」に由来しているのではないかということででした。ではいよいよ、「詩」を作る側の話に移ってゆきたいと思います。この「おふくろの味」を人為的に作るにはどうすればよいのでしょうか?

  オヤジ:「バッキャロー!「おふくろの味」ってのはおふくろにしか作れね〜から、「おふくろの味」なんだろ?どんだけ、「作り方」を教えてもらって真似して作っても、絶対に同じ味は出せないんだよ。でもおふくろはその味をどこで覚えたかというと、やはりおふくろのおふくろから覚えたんだろう。リクツじゃなくて、生まれてからずっと食っていくうちに、もう体が覚えちゃってるんだろうな〜。」(*このシリーズでたびたび登場するオヤジについての解説は【家庭の詩学】まえがき にあります。)

  ぼくも少し料理をやるんだけど、確かに料理って教えてもらっても、同じ味は出せないんですね。「レシピ」を見ながら、食材の分量、火加減、すべてその通りに作ってるつもりでも同じ味というものはでないですよね。そこで重要なのが「味見」という行為だ。何十年も同じ料理を作り続けているプロでも毎回必ず「味見」をする。なぜだろう?なぜなら、「理屈」どおりに味を再現することは出来ないからではないだろうか?だから、やはり「感覚」に頼る。同じように見える食材でも、毎日微妙に味が異なる。料理人はそうした、微妙な変化を「感覚」で感じ取り、それに頼って味を構築してゆく。だから、一流の料理人の料理やおふくろの味付けを見てみると、すごく「適当」にやってるように見える。実際、その調味料の分量を調べると毎回微妙に違うだろう。だから、「レシピ」などつくることはできないだろう。

  では、自分の心の中の「心象風景」という「おふくろの味」をコトバによって再構築できないのだろうか?キーワードは「味見」であると思う。「レシピ」に頼るよりも、「感覚」「直感」に頼る。体で覚えている「味」を、感覚で再現してゆく。この場合の「レシピ」とは、「詩の原理・理屈」みたいなものだろうか。

  さて、今回のタイトルの「化学調味料」の話に進もう。ここでぼくが言いたいのは「理屈っぽい味」ということだ。「味*素」というのは、「旨みの素」を研究し、化学的に再現した「グルタミン酸ソーダ」のことだ。どんな料理にも、この「旨みの素」を入れると。ぼくたちの脳に「うまい」と感じさせてしまう。しかし、どちらかというと「食」にうるさい僕にとって、それらを多量に使った料理は全く「奥行き」や「深み」が感じられず「平面的」に感じられる。「感動」する・しない・以前の代物だと思う。詩作においても「理屈」に重きを置きながら「味」を構築してゆくと、こういう「理屈っぽい味」の作品ができてしまうのではないだろうか?
  
  仮にぼくたちが「感動」する時に、脳内で起きている反応のメカニズムを研究し、「感動ホルモン」なるものを発見したとする。それを誘発する薬も開発されたとしよう(感動の素)。それを、どのように利用できるだろう?つまらない詩集の紙に練りこむ、つまらない映画を上映する際に空気中に散布する。するとどうだろう、たちまち、「感動」をつかさどる脳内のシナプスがビンビンに刺激されて、皆「感動」の渦に巻き込まれるのだ!すごい便利だ!もう、「感動」を起こすために芸術家が悩む必要はないのだ。すごい経済効果が期待できる!内容なんてどうでもいい、とにかく、「感動ホルモン誘発剤」をガンガン作って、バンバンばら撒けばいいんだ!

  オヤジ:「がははは!なかなかおもしろいじゃないか。でも、あんまし皮肉を言ってると、「味*素」の会社からクレームが来るぞ!でも、そんなことは、既にやっているようなものじゃないか?音楽業界だって、映画業界だって、作品に内容なんてほとんどないじゃねーか。前評判とか、プロモーションでうまい事「洗脳」しておいて、「消費者」が「リクツ」で聞いて、見て、判断し、買うようにコントロールしてるんじゃねーか。皆、マスメディアによって都合のいいように「味覚障害」にさせられているんだよ!結局、奴らにとっちゃあんまり味が分かられると困るんだろうよ。」

  もちろん、「私は理屈で詩をつくってます!」という人などいないですよね。「詩人」であれば、だれだって、「感性を大切にしたい!」と思っているはず。でも、ぼくらの周りにあまりにも「化学調味料」で味付けされたものが蔓延している。幼いときからそのような味に慣らせようとする世界で生きてきた。また、「教科書通り」の画一した教育、つまり多様性を認めざるを得ない「感覚」よりも、統制しやすい「知覚」に頼り・使うよう「レシピ」教育されてきた。「洗脳」といってもいい。だから、ぼくらは、それとは知らず、「理屈っぽい味」に反応しやすく、作り出してしまう傾向があると思う。今ぼくらに必要なのは、「化学調味料」をなるべく使わないようにすること、摂取しないようにすること。そして体全体の「感覚」を研ぎ澄まし、「味見」「経験」を重ねてゆくことだろう。そうやって、他の人の良い作品も自分の作品も、その味を「体で覚えてゆく」ことを続けてゆくべきだと思うのだ。

  ぼくは別に「詩学」を否定しようとは思いません。かの魯山人も「化学調味料も少量であればすばらしい味付けになると」言っていたそうだ。また、料理において「基本技術」はやはり不可欠なのもわかる。(包丁の使い方とか、下ごしらえの仕方とか)大切なのはバランスですよね。

  さて、今回もつかみどころのない話になってしまいました。。#2で「詩」が「知的・精神的なコミュニケーション」となりうるということに少し触れました。次回はその辺りを探ってゆきたいとおもいます。


【家庭の詩学】シリーズ

まえがき
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=35278

#1 詩とはなにか
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=35395

#2 わかるということ
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=35467

#3 感動はどこから来るか
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=35587

#4 「味*素」のはなし
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=35654

#5 「エス」のはなし
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=35811





散文(批評随筆小説等) 【家庭の詩学】 #4 「味*素」のはなし Copyright 043BLUE 2005-04-12 19:02:45
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