春の夜 ひいながたり
そらの珊瑚

 時計が深夜十二時を知らせると、ひいながたりが始まります。
     ◇
「姫さま、殿が見当たりませぬが、どちらへおいででしょうか」
 三人官女の年長者がお歯黒を三方(さんぽう)で隠しながら上段のお雛様に伺った。
「さあ、存じません」
「もしや、また喧嘩でもなされましたか?」
「けんかではなくてよ。殿にこう申し上げたの。わたくし、もう五年も着たきり雀でしょう。そのせいか気分がふさぎこむのです。十二単(じゅうにひとえ)は、重くてかないません。ああ肩が凝る」
「お揉みいたしましょう」
 若い官女は内心『それはお年のせいでは?』と思ったものの、それは禁句。うっかりそんなことを言って、昨年リストラされた前任者の女を思った。くわばら、くわばら。
 大垂髪(おすべらかし)は黒々と、白い肌をより白く引き立たせていた。妙齢を少々過ぎたといえども、充分美しい姫である。
「それでね、もっと軽くて華やいだ着物が欲しいとおねだりしてみたの。いうなれば、羽衣のような」
 いつの時代にも。モードは女の楽しみのひとつである。
「姫のため、探してまいりましょう、と言って殿は昨日お出かけになり、まだ帰ってこない、というわけよ。まさか、他所の姫にところへなど、遊びに行っているわけではあるまいな」
「大丈夫でございますよ。殿を信じてお待ちしていましょう」
「そうね。それはそうと、なんだか下の部屋が騒がしいようだけど」
「はい。ここの家の奥方さまが、子をお産みになられる、とかで。自宅分娩の真っ最中でございます」
「奥方とは、わたくしたちの持ち主の綾ちゃんの母君ですね」
「はい」
「それはめでたきこと。安産をお祈りいたしましょう」
 ぽん、ぽん、ぽぽぽぽーん。五人囃子の小鼓の音を合図に、おごそかに音楽が奏で始められた。
 しばらくするとお屋敷に衛士の声が鳴り響く。「殿のおかえりィー」玄関に牛車(ぎっしゃ)が横付けされた。
 やっと帰ってきた冠を被った凛々しいお内裏様を、沓台を持った従者が出迎える。それから真っ先に金屏風のお部屋へ向かった。
「おかえりなさいませ」
「やあ、姫。遅うなって、すまないことであったな。して、これはそなたへの土産じゃ」
 お内裏様が手渡したものは、白いドレスであった。
「ありがとうございます。まあ、素敵なお召し物ですこと。これはもしや、西洋でいうところのウエディングドレスではありませぬか?」
「いかにも。実はリカちゃんにお借りしてきたもの。どうじゃ、まこと羽衣のように薄い布であろうよ」
「リカちゃん……。存じております。綾ちゃんがよく着せ替えして遊んでおりますあの人形ですわね」
「それでそちの機嫌がようなると嬉しいのう」
「はい。ようなりますとも」
 二人は顔をみつめって、笑った。
「して、腹が空いた」
 お内裏様は、官女が持ってきたひなあられを食べる。
「姫もひとついかが、かな」
「いいえ。それよりも、わたくしはなんだか酸っぱいものが食べとうて」
「では、橘(たちばな)をもいでこらせよう」
 右大臣がもいで献上した橘は、瑞々しく光り、皮をむけば爽やかな香りがあたりを満たした。姫はそれをあっという間に平らげ、もうひとつ、と望んだ。それを見ていた官女の年長者があっと声を上げる。
「姫さま、もしやお子がおできになられたのでは? 酸いものがそれほどまでに欲しいとはその証拠でございます」
「本当か、姫」
 めおとになって、五年。なかなか子を授からないのを、心の中で残念に思っていたお内裏様は小躍りした。
「そう、かもしれませぬ」
 恥ずかしそうに姫は頬を赤らめた。
「でかした。でかした。白酒で乾杯じゃ」
 既に顔を赤くしている左大臣も、無礼講だと、さらに杯をあおった。
「ねえ、官女、ウエディングドレスとやらを着るのを手伝っておくれ」
 姫の言葉に官女は言った。
「それはおやめになったほうがよろしいかと存じます。このように薄いお召し物は、お身体を冷やしますゆえ、お子にさわったら大変でございます」
「そうなの。残念。それじゃ、来年まで、おあずけね」
 その時、階段を誰かが駆け上がる音がした。ぼんぼりの灯りがふっと消された。
「綾! 赤ちゃんが生まれたぞ。綾はお姉ちゃんになったんだ」
 入ってきたのは、綾ちゃんのお父さんだった。雛飾りの横で寝かされていた綾ちゃんは、眠そうにうっすらと眼を開けた。
「弟だよ。今度は武者人形を買わなけりゃあな」
「……そのおにんぎょうも、おしゃべりするの?」
「人形がしゃべる?」
 お父さんは、おおかた綾ちゃんが寝ぼけているのだろうと思った。
 
 春の夜。次第に明けて、白い月が空に浮かんでいる。

 



散文(批評随筆小説等) 春の夜 ひいながたり Copyright そらの珊瑚 2014-03-03 10:01:14
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