しもつき七さんがオバさんになっても(HHM開催にあたって)
コーリャ


■僕らが17歳だったころ

1971年。17歳の南沙織は「17歳」という、そのまんまやーん!な曲名をひっさげ、鮮烈なデビューをかざる。
そしてその18年後の1989年、同曲のカバーが森高千里によって発表される。これも大ヒット。一気に彼女をスターダムにのし上げた。
17歳という曲名に象徴されるようなフレッシュさとキュートさを、彼女独特の品性でラッピングして、さらに、かわいらしい色のリボンをつけてあなたに捧げるような、名カバーである。
この違ったバージョンの「17歳」にはいくつのかの相違点があり、共通点がある。
たとえば、これはネットで調べればすぐわかることだが、
南沙織の「17歳」は、自らの実年齢を曲名に据えることにより、人物的説得力というような、いわばアイドルに必要不可欠であるカリスマ性を演出することに成功した一方、森高千里の「17歳」も、あたかもそのような効果があるように見えもするが、同曲を歌ったとき、彼女は20歳だった。

そのことを、どのくらいの人が知っていたのだろうか?
あるいは、どれだけの人が今でも覚えているのだろうか?
ていうか、南沙織のことを今のひとがそもそもどれほど知ってるのだろうか?
(じつは僕もこの文章を書き出すまで、17歳は森高千里の歌だと思っていたし、そのひとの存在すら知らなかった。)

そしてだれが彼女たちのことを覚えているのだろうか?
彼女たちの歌はなにを残せたのだろうか?

いわばそのようなインチキ考古学的問いかけから書き始まる、この文章は、case氏が陣頭に立って指揮しておられる、「HHM」(http://anapai.com/tanpatsu/hhm-kari/)と呼ばれるはずの、過去5回にわたって行われた、「批評祭」(http://hihyosai.blog55.fc2.com/)の意志を受け継ぐ形で、ちかい将来に開催されるはずのネットのお祭りのためにささげる文章である。

そのための参考文献はたいていは、グーグル先生が提供してくれた。
そういうネットの情報の(404の遺跡、403の密林の)
「様々な出土品にラベルが貼り付けられ、種類別に区分され、分析が行われる。」
(中国行きのスローボート 村上春樹)


例えば1971年、僕はマイナス17歳であったので、春と修羅の序文に予言される未来人のように、まったく見当はずれな空の地層にスコップを突き立てたあげく、まるで意味のないようなものを、まるで意味ありげに、読者諸兄姉にお見せする、という可能性はおおいにありうる。そもそも死ぬほど長文なくせに、説は偏っていて、内容は全くないだろう。これは僕が予言しよう。

つまり僕は2009年に現代詩フォーラムに初めての作品を投稿した。そのころの記憶も定かでないし、そもそも、poeniqueや、文学極道、未詳24といったサイトの存在すら知らなかった。それより以前の文脈を僕は知らない。それは推測することしかできない。

2012/10/30 21:28:43 ことこ 関係ないんだけど

2012/10/30 21:28:48 ことこ たまに妄想するんだけど
2012/10/30 21:28:51 コリャ うん
2012/10/30 21:29:06 ことこ 地層とかさ、何万年も前の化石とか、掘り返したりするじゃん
2012/10/30 21:29:10 コリャ うん
2012/10/30 21:29:24 ことこ これから何万年も後のひとが、今の時代の情報の地層を掘り返して
2012/10/30 21:29:31 ことこ 研究したりとかするのかなーとか

(パイ投げチャット 過去ログ http://anapai.chatx.whocares.jp/ )


いいや、関係なくないのだ。
いわばそのようなことを今からはじめるつもりでいるのだし。だれかがこの文章を発掘してくれるように祈る。なのであるいはこれはお祭りにささげるただの祈祷文かもしれない。
なにれにせよ無駄話が長くなってしまった。本論に入ろう。


■右肩宣言は敗北したのか?

この文章の目的は、HHM開催の動機を詳らかにすることである。なので、事の発端であるところの、ハンサム&ファンキーな右肩宣言から、閲していこう。

右肩(右肩良久)氏は文学極道の古参の書き手のひとりであると言ってもいいだろう。同サイトの年間賞である、選考委員特別賞(2008年 稲村つぐ選)文学極道実存大賞(2009年)文学極道最優秀レッサー賞(2009年 2010年 2011年)を受賞している。

レッサー賞を3度受賞したのは、右肩氏だけであり、その批評の態度と能力に対してはコンスタントな評価が与えられていた。例えば、2010年の年間各賞選評において、浅井康浩氏が彼にたいして、こんなふうに言及している。

「【レッサー賞】 右肩

年間大賞の中で、創造大賞にも、抒情にも、実存にも「右肩」というクレジットがなく、レッサー賞にだけ彼の名前があることを不思議に思われた人も多いのかもしれません。
けれど、右肩氏がレッサー賞に選ばれたことを不思議に思う人はいないと思います。

右肩氏の、なによりも相手に自分の意図を間違いのない言葉にして届けようとする姿勢は、文学極道の中で、光っていたと感じています。

そして言葉選びの厳密さ。
たとえば、「浅井康浩は男か女のどちらかである」という仮定を立ててみます。
こうした言葉に対してのアプローチに、右肩氏はおそらくこう答えるように思います。
「男か女かの二者択一しかないように思えるけれども、
浅井が、男でもあり女でもある(両性具有者や性同一性障害者)である可能性もあるし、男でもなく女でもない(クラインフェルター症候群など)可能性もあるのではないか」と。

そのような視線から眺められた批評は、しんじつ、信頼することのできる言葉となって、それぞれの作品の返信となって現われているように感じます。 」
(2010年・総評その2 http://bungoku.jp/blog/20110606-325.html


一番最初の投稿は過去ログを参照するかぎり、2008年3月の日付(http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/122.html#20080311_796_2651r)で、レスの文体をご覧になってもわかるとおり、誠実かつ、明晰な、それでいてちょっとやさしいスタンスの書き手だと僕は理解していたし、おそらく氏をご存知のかたの印象もそれからそう遠くはないのではないか。

そんな彼が、2012年10月に、文学極道のフォーラム内にスレッドを立て、その提言が盛んな議論を喚起した。(こんな鑑賞ができたら面白いと思うのだけど  http://bungoku.jp/fbbs/viewtopic.php?t=684

氏の論旨を意訳するとこういうことになる、

「ネット詩の現状はクソである。なので、良質な鑑賞を産むコラボレーションを、作品に対する言及によって実現せよ」

それまで、細密な論理を展開されていた右肩さんには珍しいわりと大振りな議論である。
ネット詩がクソというのは何百回も繰り返された議論である。しかしこの言説が耳目を集めた理由のひとつには、その主張を「コラボレーション」という、他者の参加をうながす方法を強調したというユニークさにあった。つまり、現状をたしかにクソだと仮定した上で、なぜそのようなことが言えるか?そして僕たちが何をできるか?という質問にたいして、自分のレス、あるいは作品が自己言及てきなクローズドサークルで終わってしまっていることを、問題の核にすえ、交流によって、もっと豊かなネット詩の状況を「あなた」といっしょに実現しようという論である。

その後、このスレッドのトピックは背景としての文脈である、「具体的な鑑賞の方法」に集約されてゆき、その範を示してくれというコメントの要請をうける形で、右肩氏はレスをつけるものの、
「作品の弱点はあげつらわず、作者の意図を受け入れながら鑑賞に徹するつもりで。で、(補足:レスをつけた)結果はどうかというと、作者にも受け入れられなかったみたいだし、自分 の文章をひけらかしに来たように捉える人も居たし(考えようによっては確かにそんなところもあったかもしれない、と反省させられ、非常に嫌な気持ちになり ました)、好意的に捉えてくれた方もいらっしゃったようですが、新たな「鑑賞」は現れず、作品のスレッドはまさに僕が一番嫌だと思う雰囲気で進行してしま いました。
何なんでしょうね、これは。雑誌の投稿欄や、管理されたサイトや誌面では起こりえないことが起こってしまう。僕は一方的な雑誌の編集や、有無を言わさず臭 い物に蓋をする管理が嫌いでこのサイトに来ているのに、結局スタッフに(というかケムリさん一人がやってるんだろうか)頼らなければ収拾できない混乱が持 ち上がるんですね。詩のオープンな投稿サイトがあらかた消えていくのもわかるような気がします。
あるいは、こういう過程で栄枯盛衰を繰り返し、消費されていくのがネットの詩のサイトで、「消費者」はその旬だけを楽しんで食いつぶしていけばいいのか……。 」


というレスでもって、議論は一応の終息をみる。
なんか拗ねちゃったのである。
この顛末をどうみるべきだろうか?氏の宣言は敗北したのだろうか?つまり、論点が具体的な方法論に移り変わっていくすがら、「コラボレーション」という、この宣言で一番ユニークだった筈のタームの比重が軽くなり、「そんなに言うんだったら、じゃあお前がやってみろよ。方法論を提示してみろ」という急戦を仕掛けられ、右肩氏自身が、主論である、有機的な「読者(レス)featuring.作者(作品)」あるいは「読者(レス)featuring.他の読者(レスレス)」のコラボレーションという論に回帰できず(おそらくはその誠実すぎる対応のせいで)、そのまま、失意の内に議論が終わってしまったのは、氏の言説の敗北なのだろうか?右肩氏の宣言は、スモールサイズの栄枯盛衰を繰り返し、そして、消費されてしまったのだろうか?

おそらくそれはイエスでもあるし、ノーでもある。前者でありうる理由は上述した通りだが、後者でありうる理由は、それはトピックの最後のレスにある、case氏のレスポンスに見ることができる。つまり。

「右肩さんの今回のご提案に応える形というと大げさですが、
現代詩フォーラムの名物行事、批評祭をcaseが主催します。

そんなわけで、右肩さん、そして今回の右肩さんのご提案にちょっと心揺さぶられた皆さま、
そろいもそろって各々の「批評観」をぶつだけでなく、それに則った「批評」をぶつけてくださればと思います。

ほら、いかさんが良く言ってるでしょ?
「とりあえず作品出せよ、話はそれからだ」的な(てきとー)」


僕がこの文章を書いている根本的な理由はこのレスにあるし、さきほど引用した、右肩氏の「過程で栄枯盛衰を繰り返し、消費されていくのがネットの詩のサイトで、「消費者」はその旬だけを楽しんで食いつぶしていけばいいのか……。」この悲痛な呟きに対しての返答でもある。つまり右肩氏のレス自体が作品であるという意見に同調し、豊かなコラボレーションをうながすようなこと。そんな意図があることを断っておく。
たとえば、ネットの詩という場において、レビュアーという稀有なジョブチェンジを果たした露崎氏(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=228850)は、前回の批評祭参加作品において、こんなすてきなことを言っている。

「批評」や「評論」はともかく、レビュー(感想)は主観に偏ってたって
いいし、内容がダメだってそれが自分の受容したことなら胸張ればいいん
だ。すくなくともぼくは陳腐なこと書いてるかもしれないけど偉そうに生
きてるわけだし、そこにどんな種類でもいいから熱がちょっとでもあれば
それを見てくれる人はいる。

なによりその文章が存在することだけで価値があるとぼくは信じている。


右肩さん、貴方は信じないのだろうか?


■衰退していくものとしてのネットの詩たち

なにも、この衰退している、という現状認識は2012年現在の文学極道に限ったことではなく、インターネットを媒体とする詩のメディアにほぼ共通していえることだろうが、有象無象の詩投稿掲示板や、ネットを主体に活動する同人など、その範囲は広獏としていてすべて把握するのは不可能であるので、この文章で言及する(インターネットで鑑賞できる詩とシンプルに定義する) ネット詩のメディアの範囲を設定したい。つまり僕がどこのサイトがかつてほどの勢いが無いとカテゴライズするか、を以下に列挙すると、

1. 現代詩フォーラム(詩人SNS  http://po-m.com/forum/
2. Poenique(詩のポータルサイト http://poenique.jp/
3.未詳24(ネット媒体の詩誌 http://ip.tosp.co.jp/i.asp?I=heart_throb_exp
4.文学極道(詩投稿掲示板 http://bungoku.jp/

以上の4つのサイトである。

まずこれらのサイトがなぜ、どのように「消費されてしまった」と言えるのだろうか?という問いを設定し、議論をすすめていきたい。現代詩フォーラムは後述することにして、まず2.)poeniqueそして3.)未詳24について言及すると、まずこの両サイトはコンテンツの更新が1年以上ない。もはやアーカイブスとしての機能しか持たない状況である。遺跡と言ってもいい(ただしとてもステキな)。

4.)の文学極道は運営サイドの人材が少なくなったようで、3代目のフロントマンである、ケムリ氏、あるいは他の発起人たちの負担がかさみ、結果的にユニークアクセス数、PV数、投稿数が減っている。コラムの更新が終了し、月間選評がなくなって、右肩氏の認識がどうであるにせよ、失速があることは否めない。
最後に1.)現代詩フォーラムはどうであろうか?現フォは比較的これらのサイトのなかでも堅調を保ってると言えよう、毎日、30〜60の新規投稿があり、それらひとつひとつの記事のアクセス数は知りようがないものの、それぞれの詩に「お気に入りポイント」が投票されている。しかしたとえば年間のポイント順リストを例にあげてみると、2005年(http://po-m.com/forum/menu_p2005.htm)が総ポイント数のピークであり、Monk氏の190ポイント(2012年11月3日確認)は、2011年得票数トップである、吉田群青氏の54ポイントのダブルスコアのダブルスコア、4段重ねのアイスクリームである。

相田九龍氏が第四回の批評祭開催にあたって、「衰退している現状」をこう表現していた。

「2010年1月の9日から13日にかけて、現代詩フォーラムにて第4回批評祭を開催します。
個々の詩サイトは閉鎖的だという論があります。その根拠はそれぞれの詩サイトが限られた利用者による、限られた利用者のための場所であるからという ものです。閉鎖的な場所では議論が閉塞し、それが争いの火種になることがあります。また、インターネット全体を指して閉鎖的だという論もあります。
その論に依れば、現代詩フォーラムも例外でなく閉鎖的です。実際に過去につまらない争いごとが多々ありました。そのためここ数年ぽっちで、多数の良い書き手が現代詩フォーラムから離れていきました。皮肉にもその結果人間関係のゴタゴタが、無くなることはないにしろとても減りました。
しかし書き手が離れることによって、残念なことに有効な批評は減り有効な合評や意見交換も減りました。私はその状況に強い危機感を感じました。この まま詩の現場で詩が語られない状況が続くと、有望な書き手が早々に詩自体から離れ続けることに繋がるのではないでしょうか。そしてその現象は現代詩フォー ラムに限らず多くの詩サイトで起こっているように思います。
その現状を鑑み、このたび第4回となる批評祭の開催を決めました。今思うと、私が開催した第2回、第3回の批評祭も同じような理由だった気がします。」
(第4回批評祭開催にあたって 
http://hihyosai.mikosi.com/10/10-53.html


過去に行われた批評祭もそのような認識から起こったものであった。


■そして僕はなにも新しいことは主張しない

再度、言い訳のように。この文章は、HHM(仮)を開催するにあたって、その動機、そしてその文脈をみなさまに提示することが目的である。なのでここにある主張は主張の体をなさないであろう。だから僕はなにも新しいことは言わない。そして言えない。
ただ、

「(前略)僕が言うのもなんですが、若い方、色んなことをやってみて下さい。やって失敗して後悔もして反省もするかもしれませんが、あなたにはきっとそれが必要です。失敗の数大会があったらいい線いく僕が言います。大丈夫、やってしまえ。
ということで批評祭の主催者を募集します。無責任に丸投げするつもりは全くないのでやってみたい方は是非申し出て下さい。」
(相田 九龍 批評祭やってくれる人募集中! http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=243871


だとか

「そこで、いかいかさんは考えました。一生懸命メルヘンチックに考えた結果、古参はとりあえず生贄になって、比較的若い人ががんばってほしいという投げやりな 感じになっちゃいました。墓石君に、破片君、yukoさん、黒埼立体さん、藤崎原子さん、雛鳥むくさんetc、と、文学極道で、黒沢、ケムリ、右肩、浅 井、一条、そして俺とか、ゴミクズです、と言ってやってくれる人が出てきてほしいなぁ、と。俺が2chにポエム板に書き込んだとき、全員に喧嘩売りまし た。詩を書いている奴全員に対して喧嘩売るような形で登場しました。2chポエム板は今の極道よりもひどい状況で、ろくでもないスレとろくでもない作品と ろくでもない名無しとコテとレスばかりで、本当にろくでもない奴が拙い文章を晒してもうめたくそでしたよ。それはもう、ありえないほどにね。そして、何人 かの人と仲良くなり、そして盛大に決別したり、自然消滅しました。そんな詩ポエム板にシバン派といわれるものが存在していて、ダーザインやボルカさんと かは知ってると思うけど、もしシバン派のメンツで極道に書き込んだら余裕で優良作品と年間各賞を総なめできる水準にありましたよ。でも、自然消滅したし、 皆、詩を書かなくなっていきました。
 めでたしめでたし、なわけねーだろ。ここで終わりたくなければ、必死こいて素晴らしくひどくろくでもないものを作ろうぜ。
だ から、書いてください。だって、感動したいじゃない。感動できる作品を読みたいじゃない。それを読むために、下水管でドブネズミやってゴミを毎日丁寧に読 んでるんですよ。じゃんじゃんもってこい。」
(いかいか すばらしくひどいものたちへ
http://bungoku.jp/blog/20111027-368.html


だとか、

「詩のサイトは学校だと思う。教える者と教えられる者が存在する学校だと思う。基本的にはみんなでニコニコしながら、たまに厳しい目を向け合いながら、切磋琢磨するべきだと思う。詩のサイトは学校だと思う。

何考えてるか分からないヤツが学園祭を開いて、少し寂しかったところがパレードみたいに賑やかになって、まぁ苦情なんかも出て、それでも楽しかったなあ、と思ってもらえれば、それで十分。

 僕にはたくさんの先生がいて、たくさんのクラスメイトがいて、それぞれ癖があってみんなと仲良くはなかなか出来ないけれど、卒業する気はさらさらなくて、「お前が俺の批評祭だ!」って気になる女の子に言ってみたら、笑われて、このへんで、お開き。
 いっつも疲れるんだけど、やり切るって、結構いいもんだよ。」

(相田九龍 学校だと思う
http://hihyosai.blog55.fc2.com/blog-entry-133.html


それらの言葉に真に受けて、あなたにパイを投げる人たちは批評のお祭を企画する。それが完全な姿で復活するか?それとも「腐ってやがる早すぎたんだ!」となるかは、It’s up to you!である。

いわば、ネット詩のどの場がどうとかは関係ないのだ。あなたがどこでどんな詩を書いていたか、それももはや問題ではない。これからの話だ。これから、あなたたちが、どんな言葉を捧げてくれるのか。あなたの言葉でどれだけの人が踊れるのか。希望のような絶望のような、あるいは真摯な、あるいはポップな、ネット詩はあなたがたひとりひとりが豊かにしていくだろう、そんな願いが批評祭にはこめられていた。HHMはその意志を受け継ぐものである。はずである。


■ヘイ、彼女、コーリャをディスコに連れてって

2012年現在、現代詩フォーラムでいちばん「ポイント」を獲得している、たもつさんが、僕らが目にしうる一番最初の批評祭でこんな文章をエントリーさせた。

「僕にとっては何も残らない祭りだった。
最初から何も残す必要などなかった。
常に僕の肉の体がひとつあって
どうしようもならない自分がいて
そうこうしているうちに
何かは始まって何かは終わる
その繰り返し。」

(■批評祭参加作品■第二回批評祭 
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=100262


2007年、たもつ氏にとって未来人のことはどうでもよかったのだろうか?
2012年、僕はこの文章を読んだ。たもつさんにはなにも残らなかったかもしれないが、僕には残ってしまったのである。 つまり、そもそも祭というものの始まりが終わりの予感をはらんでいるということ。

八田一洋氏は、「そもそも歴史なんてあるのか」(http://www50.atwiki.jp/netpoemhistory/pages/15.html)において「ネット詩には歴史がない」とすら断言する。そしてそれは、ある種のコンセンサスとして成立してるように思える。ヴァーティカルでない場所。反復横跳びばかりで日が暮れる街。

ネットとはいつでもそういう場なのかもしれない。
右肩氏の言説はなにかを残せたのだろうか?相田九龍氏の一連のムーブメントは、ひとびとになにかを継承していくことができたのか?未詳24の更新が途切れた。poeniqueが活動休止している。現代詩フォーラム、文学極道、あなパイも、いつか、そして、まだ始まってすらいないHHMも、いつか、ひとつ、ひとつと重たいドアが閉ざされていく。ぜんぶいつかは無くなってしまう。それからは逃れられないのだ。だけど、だからこそ。

「そういう状況を見て、「停滞している」「何も始まっていない」
などと述べるのは、なんだかそれこそ、
停滞の渦の中にいるんじゃないかな、と、最近思うようになった。
なんだろね、嘆息ではなく感嘆しながら、
「よくこんだけのリセットが繰り返されるよな。」とか、
「よくこんだけ同じような議論がいつも起こるよな」とか、
なんか、そんな、停滞し続けるパワーみたいなものを感じるのだ。
継続にはエネルギーが必要で、
上昇しない螺旋階段のような場所で、それでも同じ場所を回り続ける、
そんな継続が未だに続いている、
なんだかそれって、
じつは凄いことなんじゃないの?って。」
(いとう 停滞が継続していくこと http://hihyosai.blog55.fc2.com/blog-entry-121.html


あなパイは2012年に始まった。そして、その11月。僕はアデレードという、オーストラリアの小さな地方都市でこの文章を書いてる。これを読んでるあなたが、2012年にいるか?あるいは西暦何年を生きていて、どんなサイトを贔屓にしていて、どんな詩を、どんな言葉を書いているか、それはわからない。あなたがどんな「場所」にいるかはわからない。でも、少なくとも、あなたの言葉は、誰かに受け継がれていくかもしれない。

現在、若いといわれてる詩の書き手、たとえば、浪玲遥明くん、藤崎原子さん、そして、しもつき七さんが、オジさんになっても、オバさんになっても、いや、なるときがいつか来る。そのときまで続ける。と、すべての元凶、る氏は一番はじめに宣言した。

「秋が終われば冬が来る ほんとに早いわ」
(森高千里 私がオバサンになっても)


森高千里は22歳のとき、こんな、すこし切ない、まるで、そのまま終わってしまうような歌い出しの詩を書いた。いま、森高千里は43歳。彼女はオバサンになり、むしろ美しさを重ねながら、すてきな歌を歌っている。

まだ始まってすらいないHHMもいつか終わる。そしてネット詩もいつか終わる。でも終わらないお祭りなんてない。森高千里だって、いつか忘れられちゃうだろう。

「まあ私は「批評は作品の餌」って考えにも「批評は作品を殺す」って考えにもある程度与するんだけど、結局自分の書いた文章を人に読ませるってのが破廉恥な 行為だよね、という意識があって、そこからの開き直りとして「同じ阿呆なら踊る阿呆」「阿呆を躍らせる阿呆」でありたいなとは思う。
格好つけた言い方をすれば、作品と上手にダンスしているような、作品と一緒に読者がダンスしたくなるような、そんな文章が理想の批評。」
(case ツイッターから 
https://twitter.com/case_ko/status/245729697273630720
https://twitter.com/case_ko/status/245730240532447234


だから、あなたの自慢のダンスを僕に見せてくれないだろうか?
あなたが楽しそうに踊れば踊るほど、踊る阿呆は増えていくのだ。

例えばこんな喩えはどうだろうか?しもつき七氏が、あなたに、いつか、どこかのチャットで、こう言うのだ。

20X2/10/30 21:28:48 七 秋が終われば冬が来る ほんとに早いわ


七さんがオバサンになっても、ディスコにいこう。
できるかぎりの大人数で踊ろう。お祭りをしよう。ボリュームをあげよう。
できれば未来まできこえるように。


散文(批評随筆小説等) しもつき七さんがオバさんになっても(HHM開催にあたって) Copyright コーリャ 2012-11-07 14:54:36
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