どうでもいい話
佐々宝砂

朝飯の味噌汁ぶっかけ飯(俗に「猫まんま」ともいうが、猫は味噌汁ぶっかけ飯なぞ喰わない。味噌汁ぶっかけ飯を喰うのは犬だ。故に我が家では、味噌汁ぶっかけ飯を「犬まんま」と呼ぶ。「猫まんま」は鰹節をかけた飯を指す。なんて実にどうでもいい話だなあ)を食べながら、詩を書こうとか、ヒヒョーを書こうとか、あれ書こうとかこれ書こうとかいろいろ考えたのだけれど、なーんにも出てこなかった。もう、小気味よいくらいに空っぽな気分なのである。

だけど別に不幸ではない。鬱でもない。不機嫌でもない。かといって幸福で楽しくて機嫌がよいわけでもない。要するに何でもない。何か言いたいことがあるかというと、特にない。何もないのに、書きたいという衝動だけがある。こんなんじゃ吉田兼好と似たようなものだ。という一文は、自負でも自慢でもなく卑下である(なぜ卑下なのかわかんない人は、橋本治の『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(ちくま新書)を読むこと。それを読むのが面倒な人は、きっと私の説明を読むのも面倒だろう。私も面倒だから説明なんてしない。「美しい」も「吉田兼好」も、どうでもいい人にはどうでもいいんだから)。

私は、十代半ばからしつっこく何かを書き続けてきた(「しつっこい」は「しつこい」を強調した形容詞であり、方言と言うよりは俗語。大辞林・大辞泉などにも掲載されている全国的な言葉。なんて実にどうでもいいわなあ)。しつっこくしつっこく書き続けてきた。よくネタがあるなあと思うくらい書いてきた。実はネタなんぞどこにもありはしなかった、あったのは「書きたいという衝動」だけだったのだと思うようになったのは、昨日くらいからである。

さて、しかしそれでも私は、これはひとつの出発地点、立地点なのだと考え始めている。佐々宝砂はいったいどこにゆくのやら。なんて、全く、どうでもいい人にはどうでもいいはずの話で、そして私は、これからはどうでもいい話を書いてゆきたいらしいのだ。


散文(批評随筆小説等) どうでもいい話 Copyright 佐々宝砂 2004-11-05 05:03:03
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