さらに どうでもいい話
佐々宝砂

どうでもいい話について考える前に、何が「どうでもよくないか」を考えなくてはならないのかもしれない。なんとめんどくさいことをはじめてしまったのだろうかと橋本治的に嘆きたくもなるのだが、私はオサムくんよりタカハシさんが好きだ。それはそれこそどうでもいい話で、つまり、何が「どうでもいい」話なのか個別判断はできる。

「どうでもよくない」話が何かは、おぼろげながらわかる。生病老死とか、愛とか、性とか、戦争とか、地震とか、洪水とか、旱魃とか、食糧危機とか、政治とか経済とかガクモンとかゲージュツとか、そういうものの話は、どうも、「どうでもいい」話ではないらしい。ただし、ガクモンとゲージュツはもしかしたら「どうでもいい」話かもしれない。なんとなく、そんなにおいがする。なので、ひとまず別にしておく。

「どうでもよくない」話は、たいてい真面目な顔をしている。ものすごーく真面目な顔をしている。究極の「どうでもよくない」は、人の死というものであって、だから葬式ではみんな真面目な顔をしているのだが、ここで距離という問題がでてくる。自分の近親者が死んだら良かれ悪しかれ「どうでもよくない」話だが、知らない国の知らない人が死んでも、実に「どうでもいい」。知らない国の人でなく、知り合いの親が死んだ程度の葬式だとしても、わりと「どうでもいい」部類なので葬式中に眠たくなったりする。なんで「どうでもいい」かというと、自分に直接関わる問題でないからだ。知り合いの親の死の悲しみは、知り合いを通してしか感じることができない。メディアを通して知るドコカの国のダレカの死が、かなり「どうでもいい」のは、その死が自分にほとんど関係ないからだ。

何を当たり前のこと書いてんだと言うかもしれないが、私は当たり前のことを考え直すのが好きなのである。実は今ダンナが帰ってきたので、「どうでもいい」話も「どうでもよくない」話もどうでもよくなってしまい、晩飯を作らねばならない。晩飯は「どうでもいい」話ではない。人はメシを喰わねば死んじまう。

続きはまた書く。うすぼんやりと、見えてきたものはある。


散文(批評随筆小説等) さらに どうでもいい話 Copyright 佐々宝砂 2004-11-05 17:39:59
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