雑談スレッド6軒目[445]
2005 11/16 01:55
田代深子

 宗教の核となるのはむろん死の問題、そこから延長して、変化せざる真なるものの存在についてということになるのでしょう。しかしわたしは、「信仰する人」が、死や真を突き詰めて考える以前に「信仰」そのものを必要とし、それによって生きることに力を得るのを見て、はた迷惑だとは思いつつ、よかったなぁと思うことがあります。心身共にぼろぼろだった知人が仏教系の講に通い始め、そこに集まる人たちから精神的な補助や現実的なアドバイスを受けて生活を立て直すのを見ました。ただし、わたし含め元からの友人達を片端から勧誘したために付き合いはなくなってしまいましたが…それでも彼女が自力で生活できるようになれたのが「信仰」によるなら、それもよかろうと思うのです。また、わたしの母の幼なじみの女性は、10代でカトリックの修道女となり、60歳になろうという現在も海外をまわり子ども達の福祉のために働いています。現実にある社会問題と差し向かいながらの活動ですから、さまざまな葛藤もあるでしょうが、やはりそこでも信仰がひとつの支えとなりうるのはよいことだと思えます。
 わたし自身は、ひとつの教義や神を信仰するということはできませんが、死んだじいさんの仏壇に手を合わせて旅行の無事を祈ったり、土地の稲荷に挨拶がてらお参りしたり、たとえば海外のカトリック教会でも「土地神」感覚で祈ったりします。こんなのは、まったく原始多神教にとどまっている「信仰」ですね…しかし「祈る」という行為は好きなのです。祈るときは必然的にへりくだり、自分の小ささを実感し、何者かの庇護を願い同時に信じてもいる。そこでは精神的な冒険というか飛翔というか、自分の限界を知りながらその先を願う、謙虚な前向きさが自分の中に生じているわけです。祈るときほど無欲だったりもする(笑)
 大江健三郎は長いこと「信仰」について考察を続け、作品にも著しています。たとえば『宙返り』という小説の中では、ある新興宗教のコミュニティが教祖の死の末に「神のいない教会」になろうとします。「教会という言葉は、私らの定義で、魂のことをする場所のことです。」「オレハ、神ナシデモ、rejoiceトイウヨ。」 神なくして「魂のこと」を考え為す。それは、では哲学や倫理なのじゃないかというと、まぁそうであるとも言えるでしょうが、やはりむしろ「信仰」に近い気もする。(レヴィナスのことなども思い出されてきます…が、ちょっともうわたしごときの手には負えない…)

 ともあれ。
 さまざまな宗教を知ることは、それを信仰する人の文化や倫理を理解することですから大切なことですが、「知識」だけではこぼれてしまうものもあるだろう、と思ったりもするのです。
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