2011 10/08 13:56
中川達矢
美術の話を少々…。
19世紀後半に印象派が生まれ、そこから科学的要素を取り入れた新印象派、20世紀初めになると第一次世界大戦という世界が交わる大規模な戦争のもとで「ダダイズム」などがうまれ、美術はますます変容化し、かの天才的(?)な画家であるピカソが属する「キュビズム」と言われる形式が生まれます。
この「キュビズム」の特徴は、立体性を平面にあらわすということ。
それは、ある意味で立体の分解を用いて平面に表現しているのだと自分は感じます。
この観点は、蛙さんが出した「意味の解体」に繋がるのではないでしょうか。
一つの現象を表現したい!という時、どうしても、創作者のフィルターを通して作品に反映されてしまう。
そのフィルターが技法となる。
印象派であれ、新印象派、キュビズムなどなど。
これこそ詩を作る手段なのでしょうが、
「書きたい!」って思ったことをどのようにして書いていくのか、
そのまま書くのか、違う現象を結びつけるのか、言葉を洗練していくのか、なんやらかんやら。
ましてや詩を書くきっかけなど、「書きたい!」と思ったから書く人がすべてではなく、何となく言葉をすらすら〜っと書いてしまう人もいるでしょう。
その段階からも疑う余地がありますね。
ちょっとそれてきた…。
言葉を解体すれば、無意味な記号になるのでしょうか。
そこには疑問があります。
具体的にどういった解体を指しているのかわからないので、正確に言えないのですが、記号が記号であるためには、差異性がそうさせるのであり、記号は一つとして存在しえないものだと、記号論の前提としてそうあります。
(もちろん、ここにも批判は行えるのでしょう)
自分でもあまりそう考えていない極論を言えば、記号は常に他の記号との関わりを持っており、また、それだけでなく、読者のコンテクストによって解釈されるのだと思います。
無意味な記号というのは、記号自体がそうさせるのではなく、読者のコンテクストと結びつかない、つまり、読者の経験や知識がその記号と無関係だったのではないでしょうか。
だからこそ、閉塞的・個人的なテクストは、あまり共感し得ないものになる可能性がある。
そこが「日記」と「詩」の違いなのかな、とも考えられますね。
そこで便利なのは、「きみ」とか「あなた」とか「かれ」とかの代名詞。
対象が限定されているようでいて、厳密には限定されていない。
だから、あまり閉塞感が出ずに共感を生みやすいのかな、という気がします。
#思うがままに書いてみました。
#どうぞ批判してください。自己反省もします。
#また、この流れをぶった切って、書きたいことを書いてください。
#くだらないことでもなんでも話しましょう。