2011 10/06 14:59
……とある蛙
文芸という芸術についてのぼやき
最近詩って奴が分からない。ギンズバーグは「主観的真実が読者あるいは鑑賞する者を得て客観化して初めて詩という名に値する芸術が成立する」としている。そうであれば鑑賞する者は一人でも良いのか、極端な話自分一人とどう違うのかという話にもなりかねない。言葉というやっかいなものを扱う詩という文芸は、素材自体に意味があるため問題なので、素材自体意味を持たないたとえば粘土、絵の具、音いや空気の振動に 意味を持たせるのは人間のリフレインを中心とした規則性の性癖ではないか。ならば、究極の芸術とは規則性を自覚した無規則なリフレインであってフリージャズ辺りだったのだろうか。
言葉という固まりの解体ができない(山本陽子さんなどは解体しているが)以上、その意味の範疇の組み合わせで、鑑賞者との関係性を構築して行くしか言葉の第2の意味を獲得することは出来ない。
言葉を解体すれば、無意味な記号でしかないので、無意味な記号を並べて曼陀羅模様みたいな抽象画にするしかないのかもしれない。言葉の意味の範疇を厳格に考えて行くと詩などはとても書けなくなる。詰まるところ感覚の問題でしかない。そして読者が一人でもよいと言うことになると芸術としての詩作など成立しなくなる。表現された創作物が、ある種の感動を鑑賞者に与えるものであっても、地域的普遍性と時間的普遍性を獲得しなければ芸術作品とは言えないであろう。
※現状の多くの詰まらない現代詩を参考にしたような上手な作品を読んでも、ほぼ無感動で退屈なのは中身がないからです。→それであれば意味を解体してしまえというのは一つの方向だと思います。我慢して読んで素晴らしいなどと言っているのは嘘くさい。