雑談スレッド7軒目[109]
2008 11/15 16:44
小池房枝

 すみません、小池です。再々おじゃまします。これもしばらく前にこちらであった、文法が間違ってるっていうのは、文法が間違ってるってことに過ぎないっていう話に関連して、間違い、いろいろな間違い、たとえば文法。文法が間違っているっていうのは、文法が間違っているっていうこと。はい。もしも、そこに文法があるのならば。
 文法はあるとしたらどこにあるのか。それはひとりひとりの心の中に。わぁ、ここでひかないでくださいね。よくある「神様は何処にいるのか」問答ではありません。自分が初めて立って歩いたときのことを覚えている人は少ない。ましてや、説明できる人は。説明できなくても、専門用語なんか知らなくても、わたしたちは自分の中の基準に照らして自分の日本語にとって(母語が日本人のひとは、ですね)何が○で何が×か知っている。
 食べるならタベル。食べないならタベナイ。中には言い間違いでなくタバナイというひともいる。それならそれがそのひとの"正しい"。飲むならノム。飲まないならノマナイ。ノムじゃなくてノムルというひともいるかもしれません。幼児語にあったのか、方言なのか、たまたまそう覚えてしまったそのひとだけの言い方なのか、でも普段は周囲に合わせてノムって言ってるけど自分的にはノムルなんだよなーという場合にはそれがそのひとの"正しい"。
 説明出来なかろうと他がどうあろうと自分にとっては"こちらが正解"。そしてそうじゃないものは"それはなんだか変"。そういう感覚。
 文法はまず、ひとりひとりの心の中にある。言語学者はそれを観察する。共通項やバリエーションや歴史を調べる。それとは別に、教育や政治に携わる人々は彼らの都合からある規範を設定する。入試では入試用の知識が問われる。学者さんたちの研究結果や権力者さんたちのお触れ書のようなものばかりが文法と思われがちですが、まず、最初に、譲りようのないものがそれぞれひとりひとりの心の中にあるということ。そしてそれは実は細かいところでは人それぞれだということ。(既に長文なのにまだ続く。お許しを。許すも何も勝手にやってればって、ああ、そんな・・・。)
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