雑談スレッド7軒目[110]
2008 11/15 17:11
小池房枝

 一つ前の投稿からの続きです。説明出来なかろうと他がどうあろうと母語については大多数ひとは自分的には何が"正解"で何が"変"なのか知っている。譲りようのない感覚がある。というわけで、でもこれは、母語だけの話。
 覚え方や習い方のせいなのかどうか、ひとにもよりますが、ふつう外国語は母語ほど直感がきかない。理屈があれば別だけど理屈ぬきで自分の心に聞いてみたときに返ってくる答えがない。赤ちゃんがするのと同じように会得していけたら感覚?センス?内的基準?が立ち上がるのかもしれないけれどそれには時間がかかるし、頭の中にあったかもしれない言葉覚え用のスイッチももう切れてしまっている。
 そして同じように、日本語は日本語でも古文などの場合、心の中に自分の文法、自分の感覚があるひとは少ないのではないでしょうか。古文が好きでずっと親しんで来たようなひとたちは別ですが。語彙は、自分の中にある。見聞きしたときに場面や前後や過去知識から意味は分かる。だけど使っていて「それ文法違ってませんか?」と言われたとき、自分の心の中にカタコトやヒトコトずつの言葉があるのは確かだけど、では、文法は?
 だから、ほんとうは慌てる必要も憤る必要もないのです。自分の中に確かにある何かの感覚を、何かを、否定されたわけでもなんでもないのですから。その上で、もし言いたいことや意味したいことに対応する形を古文のやり方に則って作るための物差しが欲しいのならば、外国語を習うときのように学者さんや学校に教わりながら習いながらのアプローチも有用なことでしょう。
 あなたの日本語は正しくない、間違っている、だいいち美しくない、なーんてなこと言われたからって誰も自分の言葉を手放したりはしません。なぜって、だって、自分の言葉なのですから。けれども、ひとぬきでは存在しようも現象しようもないのが言葉たち。言葉たちにも幸せでいて欲しいのです。なんだか変な終わり方ですけど雑談。
 (ちなみにヒトは不幸でもかまわないと思ってるわけではありません。不得手な輩は古文するな外国語するなカタコトするな言葉が可哀想だろーと言っているわけでもありません。ええと、"わけではありません"のところを省いて読んだりコピーしたりはしないでくださいね。お願いします。連続投稿三回終わりの小池でした。) 
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