ニューススレ[93]
06/03 09:38
ドジ

>奥主 榮
>経験を通して、自分が他人とどう関わったのか、何を考えたのかといったことが見え
>てこないのです。

わたしは極端な人間嫌いです。
ですから人との交流はあまりかんばしくありませんでした。
いわば「引きこもり」でした。むかしは「引きこもる」にもそういう良好な環境はありませんでしたので、昼間から映画館の暗闇にこもって三本立ての名画座をハシゴするというような状況でした。似たやつというのはおるもので、いまのようにビデオやDVDもないから、そういうやつはみな名画座のような映画館に集まる。右をみても左を見ても人間嫌い(ということはとても人間が好き)な連中が鬱屈した横顔を見せてスクリーンに自分を解放している。それをみて、いまの引きこもりの人たちとは違ってある種の共生感をもてたし、おればかりが孤独でもないんだなと安心をえた。
人と会いたいのだけど会えないから映画や小説などと向かいあってきた。ですからいまだにわたしは他人とどう向かい合ったとか、それでどう考えたのかということが出来ないし苦手であるように思う。
ただ、どうして他人と向かい会うのが苦手だったかというと、やはり周りは過保護に育ったやつらばかりで、一見おとなしげな態度、洗練された口ぶり、模範的発言などにじつは精神の「未開」を感じてしまう。
とくにインテリはだめでしたね。まして小説を書くやつとか、政治活動をしている奴とか、哲学をやっている奴とかの多くには、もっとも精神の「未開」を感じました。未開人の残虐な精神が消化されないで、妙なかたちで美しく粉飾されて残っている
そういうふうにいわゆる文化インテリには感じましたし、みていました。
それはいまでもそうです。
たとえばわたしがガキのころにだれかを失明させたり、大怪我をさせたり、あるいは逆であっても、そんなことは幼児や幼い子供の未開性ゆえに許されているんです。許しているんです。少なくともわたしたちにとってそんなことは問題ではなかった。
にもかかわらず、たとえば奥主さんが子供時代の出来ごとにこだわるのだとすれば、それはわたしなんかには理解がむつかしい感性なんです。
たとえばガキのころにわたしのせいで失明した奴と大人になって出会ったとしてもわたしはたしかに「あー、悪いことしたな」程度のこころの痛みは持つでしょうが、すぐに忘れて「よう、元気でやってるか」と陽気に挨拶できるタイプなんです。
これはやはり人間の奥底にある未開性を共有できたもの同士の、あ・うんの呼吸みたいなものだと思っています。相手が死ぬほどわたしを恨んでいて、陰湿に憎んでいるなんていうのは、じつは過保護の中に育って極端に管理された環境での出来事にまつわるとき、そのようにいつまでも人のこころに恨みとして残るんじゃないかとわたしなんかはノー天気に思ってしまいます。
あ、電話だ。また。
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