06/27 19:02
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考えを整理してる内に、結論を導き出すに至りました。
これが、天皇制問題に関しての、最後の意見です。
身分差別を身分の越境が存在することだけに目を向けた時、この世に存在する身分制度は例外無く差別だと断定されてしまい、そこには歴史や伝統の重みが立ち入る隙間がない。そんな断定ありきで語るということは、一方的に断定される側の背景を見ない、ということ。
アパルトヘイトのように、近代において明確なる主目的としての差別が前提にあったものを、その道筋を辿れば神話にまで達する天皇にまで持ち込むのには無理がある。神話にまで達するということは、日本という国の起源にまで達するということ。
天皇制を拒否するということは、例外無く神道から始まり数あまたの神事や神際までもを否定することに繋がる。それは日本土着信仰である神道を否定するということになり、ひいては、この国を否定するということになる。
これに対する構えとして、自身を世界市民だと言ってはばからないのであるならば、それでもいい。しかし国際社会においてそれを主張すれば、あなたのような無国籍人とは話をしたくないと跳ね退けられるということ、付け加えておきたい。
で、肝心の部分。何故、天皇は血脈を維持する必要があるのか。
これは、逆に言えば、維持しないという例外を認めない、ということです。例外を認めないのは、ひとつの例外が宗派の分裂に繋がるから。この際ハッキリ言っときますが、神道は国教です。土着信仰であると共に、ひとつの宗教であり、国教なのです。それが正式に布告されているかどうかの問題ではない。当たり前のように日本中に神社があり、皆が正月を謳歌する。新築の際には地鎮祭を行うし、合格や安産の祈願にお守りを買う。すでに国民と一体化している国教なのです。この国の創世にまで遡ることが出来る、宗教なのです。
さて、世界に目を向けてみれば、例外を認めることによって分裂した宗派が沢山あります。そして、それは戦渦を招く。カトリックとプロテスタントの争いなんかが良い例。国内でも、そうした分裂により仲違いしてる新興宗教が多々ある。どれもこれも、中枢がブレたことが引き金になっている。
そういった事態を引き起こす要因を産まない為に、血脈を維持する必要があるのです。馬鹿馬鹿しいと考える方も多いでしょう。でも、これが真実であると結論付けるに至りました。世界一寛容で他のどんな宗教とでも融合出来る、この特異な宗教にも、不文律は存在するのです。
(ちなみに、政教分離の考えとは、政治と宗教を分離することではありません。ひとつの宗教政党に肩入れしないとか、そういう意味だったと思いますが、まあ、それはゴーマニズム宣言とかで詳しく拾ってますので、そっちを見て戴だければ。)
さてさて。人権問題の観点から見た時、天皇制は例外です。というか、日本という国を背景にして見た時に、例外とせねばならないのです。しかし人権問題そのものには、個々の宗教など関係無い。つまり、例外無く身分制度そのものを差別視する場合、天皇制は否定されるしかない。互いに例外(妥協点)を認められない(見つけられない)以上、食い違うしかないのです。
・・・ということで、私は人権問題を考える前に、まず日本人であることを優先します。部落差別の撤廃を考えると同時に、天皇制の維持を望みます。佐々さんの論理にある「国よりも人権」という思考が、私にはありません。まず、国ありきです。だから、人権問題の面だけから見た時においてのみ、私は差別者ということになります。そういう面だけから人権を見て、国をないがしろにすることなど、私には出来ません。(勿論、国教である以上、政治から完全に切り離すことも出来ません。一宗教団体と見なすことなど出来ないのです。)
世界には、未だに国を持てない民族や宗教が沢山あります。クルド、チェチェン、パレスチナ、カレン・・・。そういった人々を思う時、国があることって凄く嬉しいことなんだなと、実感するのです。
(最後に、佐々さんには「出来ますよ」とだけ、言っておきます。ここで、これ以上に私自身や私の家庭や親戚の酷情(障害者等)を公開するのは、ちょっとアレですから。皆、辛い事情なら山ほど抱えてるんですよ。)