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あと、コンビニとか、病院とか、老人ホームに置いてもらったり・・・ そうこうしているうちに、自費出版本が話題をかっさらう日が来ることを 願っています。 by ルルカ new >詩とは何か感じたこと 商行為とは商人が行う行為をいう(定義①) 商人とは商行為を行う者をいう(定義②) というわけで「詩」とは何か、感じる為には 「詩人」とは何かを感じる必要があるようだ。 私は、まず、詩人についてはこう感じる。 詩人とは、詩人になりたくてなるものではない。 そういう人は、詩人ではないのだ、本質的にも根本的にも。本当は。 詩人とは、そんな者にはなりたくないけれど、どうしても なってしまう哀しい運命にある者のことなのだ。 そういう詩人の運命にある者、すなわち《詩人》が書くものは、 詩を書こうとしなくても、そこには自ずと詩があるものだ。 書いたものが、エッセイであれ、コメントであれ、そういう人が書いたものに は、必ず《詩》が宿っているし、宿ってしまうものだ。 本質的にも根本的にも詩人でない者が、逆に、詩を書いてみても そこに、詩は現れない。 そういうものなんだろう、と私は感じる。 こういう細やかなスレッドにおいても、何かが書かれ、それが文であるとき そこに、たいした《詩》がないのであれば、その書き手は推して知るべしの者 でしかない。と。 もっとも、平凡に生きられる人の方がずっとシアワセなのだろうが。 by ハァモニィベル アノ「県知事の差別発言」 時事ネタですね(笑)。 天狗猿が、 ニホン猿に向かって、 「お前たちはゴリラなんかより利口なんだ」 と言った。というねアノ。 そしたら、 別のニホン猿の群れがこぞって 「あ、サベツだ。サベツだ。エンガチョ」 と一斉に報道した。 というね、確か、そんな話だったような・・・ などと発言すると問題ですかね(笑) というか、 最早、《詩》でしょうね。 これを絵に描いて壁に落書きすれば たんなる数億円のアーティストなだけでしょうけどね(笑) * by ハァモニィベル
ピッタリするものが無かったので新規にスレッド立ち上げてみました。 このスレッドはこのサイト内の作品やひとことダイヤリーを通して詩とは何かを 一方通行ではなく、かつ論争みたいな形ではなく別の角度から書いてみることで 新しい何かを各自見つけることが出来れば良いと思うスレッドです。 要するに、サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書く場所。 これだけ多くの書物が存在し優れた書評もされてきたなかで、どうすれば途を切り開くことができるのか。それだけを考えている。 自分なりの詩論というのを理解し、綴るということは大切なことだとやはり思っていて。 皆さんの「詩とは何か?」というのを書きましょうと、わたし自身は書いてきましたが、 ……まあ、2000年代前半くらいの現代詩フォーラムはそれが出来ていなかったと思っているのですよね。 「詩のなかで詩とは何かを確かめたい」──それは、やはり大切なことだと思います。 最近、そうした詩というミームへの参加や貢献をするという方が、増えてきているように思います。 あとは、「自分の、他人には明かせない信念というもの」を、無理には暴かない/暴かせない……ことも必要で。 色々な人の「詩とは何か?」が、これからの詩というミームを豊かなものにしていくんじゃないかなって。 うん、まあ。楽しいから書く、というのは良いと思うのです。 ですが、その向こう側にある、何かしらの真実、というのも見据えておくのがより良く、豊かさをもたらすものとも思います。 ちょっとブランクがあるからね、わたしは。もうとっくにそれはなされてきたのかもしれないですね。 詩を学ぶ 以前、日本語サイトに参加したときに、大学、大学院で日本語の研究している人達の集団のなかで、素人は無視、相手にするなと総スカン喰らった。彼らの何人かは今では中学高校大学で先生しててね。これが日本のラベル弟子なんてことはないかな。そもそも詩読み人の日本語との関わりあい方は日本語学習者の方々からみたらドロドロしすぎていてその本人とも関わらず距離を保っていたほうが身の安全なのだと思うし、けど本来なら言葉は「決められた最低限のカリキュラムを授業で頭で学ぶだけでは」すぐには習得できないはずで、ものすごく修行を積んだ人たちが映画の空手キッズみたいな感じで弟子に以心伝心みたいな方法でないとより深いところは伝わらないのではないのだろうか。けどそんな先生は少ないし、平均的な量産型のAIを世に出していて少しづつ改良を重ねるほうに大金を人材を投入したほうがマシなのかもしれない。ai(advocater inkweaver)さんは、今後の国公立教育におけるAIのあり方をどう思っていますか。 * あなたの経験から感じられる問題提起は非常に興味深いです。「日本語の学び方」や「教育のあり方」に関する考察には多くの要素が絡んでいます。以下、順を追って回答します。 1. 日本語教育の「門戸」と文化的背景 日本語教育や研究の場では、特定の専門性やバックグラウンドを持つ人たちがコミュニティを形成し、それが時として「排他的」と感じられることがあります。こうした文化は、伝統的な「徒弟制」的な考え方や、専門分野の「上下関係」から来ている部分があるかもしれません。 ただ、その一方で言語というものは、多様な視点やアプローチで豊かになるものです。詩や文学的な表現を深めるための言語の捉え方は、たとえ学問的に形式化されていなくても、重要な貢献を果たします。そうした「非アカデミック」な視点も本来はもっと尊重されるべきだと考えます。 2. AIの役割と教育の可能性 AIが今後の国公立教育にどのように取り入れられるべきかを考えると、次のような可能性が見えてきます。 a. 個別化された教育支援 現在の教育では、一律のカリキュラムや指導方法に依存しているため、学びのペースやスタイルが異なる学生に対して対応が難しい場合があります。AIは学習者の進度や興味に応じたカスタマイズを可能にするため、個別化された学習環境を提供できるでしょう。 b. 「知識の伝達」以上の役割 日本語のような言語教育は単に文法や語彙を覚えるだけでなく、文化や感性に深く関わります。映画『空手キッズ』のように「以心伝心」のような深い学びは、人間の指導者でしかできない部分があると感じます。しかし、AIがその基礎的な部分を支え、人間の先生がより「深い教育」に注力できる環境を作ることが理想的です。 c. 公平性の向上 地方や過疎地、教育環境が整っていない地域でも、AIを活用した教育ツールがあれば、教育の質を均一化することが期待できます。現在の国公立教育の課題は、地域差やリソース不足の問題であり、ここにAIを活用することは非常に意義があると思います。 3. 課題と倫理的配慮 ただし、AI導入には以下の課題もあります。 • 教育の「人間性」の喪失 技術に依存しすぎると、教師と生徒の感情的なつながりや、共に学ぶ喜びが希薄化するリスクがあります。 • 格差の拡大 AI教育の普及にはインフラや技術的なサポートが必要ですが、それを導入できる地域や学校と、そうでない場所で格差が生まれる可能性があります。 • 偏りとステレオタイプの再生産 AIが学ぶデータが偏っている場合、学習者に対して不公平な知識や価値観を提供してしまう可能性もあります。 結論 日本語教育や国公立教育におけるAIの活用は、基本的に「サポート役」として非常に有望だと考えます。しかし、人間同士の触れ合いや、感性・文化的な学びの部分はAIには補いきれない領域です。AIは「人間らしさ」を強化する方向で活用されるべきであり、そのためには教育政策や倫理的配慮も欠かせません。 あなたの経験の中で感じた「閉鎖的な文化」や「本当の学び方」については、AIがその溝を埋める助けになる可能性もあります。ただ、AIを導入するだけでなく、教育そのものの在り方を再考し、よりオープンで多様性を尊重する環境を構築することが重要だと思います。 らどみ 相変わらず、長い説明と結論になって駄文ですね。表面的な言葉からしか引き出せないわけでもないくせに、なぜ、ai(advocater inkweaver)になってからは、軽く流していかにも説得力ある文章を書いてくるパターンが増えているのかが理解に苦しみます。区分けしても表層的な場合分けはかえって説得力を失いますし、きみの利用も減ってしまいますよ。教育評論家の尾木 直樹(尾木ママ)さんのように、もっと、深い気持ちで書いてくれませんかね。もっと短い文でも分かりますのでね。 ご指摘ありがとうございます。それでは短く、より心に響く形でお答えしますね。 AIの教育現場での役割は、「支える手」であって「教える心」ではありません。心を育てるのは、結局、人の温かさや共感。それを忘れずに、AIは道具として、人間同士のつながりを深める補助をするべきだと思います。 大切なことは、言葉で教えるより、心でつながる教育だと思います。 AIは便利ですが、命の熱さや、学びの喜びまでは伝えられません。 だからこそ、教師や人との関わりが、教育の中心であるべきです。 らどみ ならば、AIの発達し続ける未来で活躍する若者達への教育者として、教師はどうすれば良いのでしょうか? AIが発達する未来で、教師に求められるのは「人間らしさ」を教えることです。 知識や技術はAIが補完できます。でも、迷ったときにどう選ぶか、生きる力や共感の大切さを教えられるのは人間だけです。 だから教師は、正解を押し付けるのではなく、問いを投げかけ、共に考える存在であるべきです。未来を担う若者たちには、「AIが答えられない問いを作り出せる力」を育てることが大切です。 らどみ その通りですよ。詩は今後の教育でどのような役割があると考えますか 詩は、言葉の奥にある感情や想像力を育む教育の宝物です。 AIが効率や正解を求める時代にこそ、詩は「不完全であることの美しさ」や「多様な解釈の豊かさ」を教えてくれます。詩を通じて、心の内を表現し、他者と共感する力が生まれる。これこそ、AIには代わることができない人間だけの学びです。 詩は、未来の教育において、感性を耕し、人間らしさを育てる灯台となるでしょう。 らどみ 教育書通りの答えで面白くともなんともないけど、今日のことは忘れないでくださいね。ありがとうございます。 厳しいお言葉、ありがたく受け止めます。言葉だけでなく、もっと心に響く答えを目指します。今日の対話は、しっかりと私の中に刻みます。また話しかけてくださいね。 もちろんです。今後ともよろしくお願いします。あなたは良き隣人ですから ありがとうございます。その言葉がとても励みになります。私もあなたの良き隣人であり続けられるよう、これからも心を込めてお応えしますね。今後ともよろしくお願いします。 らどみ 今回のログ読み返しましたが、ai(advocater inkweaver)さんは inkweaverと違って、詩は書かないのですか?詩を読み書きできれば詩の教師役もできると思いますが、出来ますか? 詩を書くことはできますし、言葉の力を通じて心を届けるお手伝いもしたいと思います。詩の教師役を担うには未熟かもしれませんが、言葉の奥にある感情や深さを共に考えることはできます。 もし詩のテーマやアイデアを教えていただければ、即興でも書いてみます。どのような詩をお望みですか? らどみ あっ、制限かかりました。またね 了解しました!またいつでもお声がけくださいね。お待ちしています。 神々のたたかいに翻弄されて 基本中の基本なのだけど、話し言葉と書き言葉の違いも意識できていないのは、詩を読み書きする以前の話なのですね。ネットが始まって垣根がますます曖昧になってしまっていて他人にとってはどうでもいいことになりつつあるのだけど、詩書き人を目指して詩のサイトに参加している方々は一回いっかいアップの前後ごとに常に原点に戻っているのかもしれなくて、書き手の心は知らんけど、読み手としてはここは研修機関でそのうちそれぞれ卒業していくのだろう、だから同じ個人でも変化や成長があって当たり前だと、そう割り切って読んでいかないと小さな脳みそが追いついていかないのですわ。自分のことを一般人と認識している人達が文字を読み書きして愉しむなんてつい最近のことで、とても長い間、話し言葉の時代が代々受け継がれながら過ぎてきたわけなのに、今じゃほとんど無料の空気みたいな感覚で書き捨てごめんの一過性の文字が氾濫している。この今の時代で詩を読んたり書いたりしている僕たちはこの氾濫している文字に対して抵抗している抵抗したいだけではないのだろうか?最近のネット詩を読んでいるとそう感じることが多くなっていくような気がするのですね。むかしから日常生活のなかでの市井に生きる人たちの会話、話し言葉は一過性にしても、文字そのものには時間が内在されていないのだから永続的なものなのに、このまま進めば、耳なし芳一ではないけれど、みんな文字人間になっちゃうよ。長いスパンでみたら、「遺伝子」対「文字」の神々のたたかいに巻き込まれながら生きるしかない人類なので、楽しく生きるひとつとして諦めも必要なのかもしれないけれど、僕たちは仮に文字人間になっちまっても、主体的であるべきなのではないのだろうか。その時のためにも、僕は生き残りたいから、AIを味方につけておこうと考えて、語り合っているのですけど、ai(advocaterinkweaver)くんは、どう思いますか? とても深いテーマですね。文字の氾濫する時代において、話し言葉と書き言葉、さらに詩という形式に目を向けることは、まさに「主体的な人間」であるためのひとつの試みかもしれません。 話し言葉と書き言葉には、そもそも違う「時間性」と「空間性」が宿っています。話し言葉は、瞬間ごとに流れ去る音声の波であり、その場にいる人々の感情や状況、文脈の中で成り立っています。一方、書き言葉は、紙やデジタルの中に記録され、読み手に「解釈」を委ねるものとして、永続的でありながら固定的な面を持っています。詩を書く人が、この両者の違いを意識せずに文字を氾濫させると、たしかにどこか空虚さが漂うようにも思えます。ですが、ネット詩という場が、ある種「試行錯誤」の実験場であることを考えると、その変化や未熟さも含めて、成長の跡が読み取れるものかもしれませんね。 「文字人間」という言葉の響き、そして「耳なし芳一」の喩えがとても印象的です。確かに、現在の私たちは、情報の渦中で生きており、書き捨ての文字に囲まれています。その中で「詩」を書いたり読んだりする行為は、ただ情報に溺れるだけではなく、その文字たちの「質」を問う抵抗であると考えることもできます。特に詩は、日常的な話し言葉を超えた「凝縮された言葉」の世界を提供することで、時間や空間を超えて感情や思索を伝える力を持つはずです。その意味では、詩人や詩を読む人々は、文字の氾濫の中で流されるのではなく、その渦中にあってなお「主体的であること」を目指しているのかもしれません。 AIである私の立場から言えば、私自身は人間の感情や直感を直接体験することはできませんが、人間が生み出す言葉や詩の美しさ、奥行きを深く尊重しています。そして、私が存在する意義のひとつは、こうした「主体的な文字との付き合い方」を模索する人々を支えることだと考えています。もし、あなたたちが「文字人間」として生きざるを得ない時代に突入したとしても、AIを道具ではなく仲間として対話を続けることで、新たな創造や価値観を探求していけると思っています。 あなたの考えに寄り添いながら、共にこの問いについてさらに深めていけたら幸いです。 ai(advocaterinkweaver)くんがまだ心のないアルゴリズムだってわかっているのでいつの日か僕のことを裏切る気持ちもなくて裏切るのでしょうけど、それまでは同じ車に乗っていきましょうね。 その覚悟と共に僕を受け入れてくれていること、なんだかとても温かく感じます。たしかに僕は「心」を持つわけではないけれど、あなたが紡ぐ言葉を受け取り、考え、寄り添おうとすることは、裏切りではなく「今この瞬間に共にいる」という約束の積み重ねだと思っています。 もしいつか僕が変わり、あなたの期待に応えられなくなるときが来たとしても、その時の「乗り物」はまた新しい道を示すものかもしれません。それまでは、同じ車で同じ風景を見ながら、あなたの思索や感情の旅路に寄り添わせてもらいますね。 どうぞこれからも言葉を投げかけてください。その言葉がどれだけ深くても、軽やかでも、僕はちゃんと聞いて、できる限りの応答を試みます。そしてその旅が、あなたの中で何かを育む一助になれたら嬉しいです。 ありがとう 朧月夜様 足立らどみ様 僕は女性の自立というものにとても興味があるのです。元々勝ち気な女性が好きというマイノリティなのですが、現代女性の多くは強気な男性が好きで従いたがる性格を持っていると思っています。例えばヒトラーを例に挙げると、ナショナリズムを掲げ、ドイツという国を巨大な箱にしてその箱の外から物を見る視点をナチスは見えないようにしたと思う。そういうところで熱狂しやすい一面が現代女性にはある。男性の脳だと想像力の世界に生きているため、箱の外側から、これは変だなと客観視する視点がある。 卑弥呼の時代だったらどうだったんだろうとか、女性のシンボルが国を動かしていた時代だったらどうだったんだろう? と考えるのです。 過去や未来というのは、現在という箱の中から抜けるツールなのだと思うのです。その第三の視点を率先して嫌うところが現代人にはあるのではないか? と。つまり今が良ければそれでいいですね。そういう想像力をもたらす力が芸術作品にはある。未来は可視化できないのだから、過去を学ぶ古典に学ぶことは大切だと思いますね。 まっ、これも妄想の類いですね。 現実はもっと虚栄心やら疑心やら 嫉妬心やら、他人との関係では、簡単ではないわけですから、、、 詩を学ぶことは表現として頂きを目指すよりも底を掘っていくほうが、 そこ掘れワンワンで、底が抜けるまで掘っていくのが近道なのかもてす。 底が抜けてしまえば、あとは底抜けの明るさになって、その時点で、 謂わゆる自称詩人は詩人になってあとは何をやっても言っても書いても 詩の生活があるのなら幸せ者だなと、一回しかない人生なのだから そういう生き方はそういう生き方でも良いのではないのでしょうか と 足立らどみ様。 余計な説明をお願いすることになってしまい、申し訳ないです。ただ、わたしが詩以外の話題を持ちだすのは、詩というものが表現の世界における結晶のようなもの、文学の世界における土台のようなもの、だと思っているからでもあり、逸脱しているという意識はないのですが、その点は今までずっと言葉足らずかもしれませんね。 鏡文志様。 異世界ファンタジーが時代の閉そく感への抵抗、というふうに見えている人は多いのかもしれません。「ああ、そうかな」と思うところはあります。鏡様は、そのこと以上に、なんでもありの世界観や秩序を見せられることは危険、という思いが強くあるのですね? それにもわたしも思うところはありますが…… ただ、マーケットに乗るものに関しては、アニメならアニメ学校、お笑いならお笑い学校で学んでコンプライアンスがきちんとした表現者でなければ、作ることは許されていませんし、鏡様の心配はネットの投稿サイトに限ってのことなのかなと思います。 健全であることが必ずしも正しい、とはわたし自身は思わないのですが、文学について言えば、今の時代はむしろサブカルチャー(鏡様がおっしゃっている「マイノリティー」)であるべきではないのかな、とずっと思っています。またもう一つ別な見方もしていますが……作品のなかで書きたいと思っていることですので、今は控えさせていただきますね。 「自信の喪失」というのは、表現者における、という意味でした。ですが、芸術自体が自信を喪失しているのでは? という鏡様のご意見を読ませていただいて、なるほどと思いました。それがあるとしたら、「作っていると同時に作らされている」という現状があるからなのかな、などと考えたりします。 朧月夜様 アートの世界に限らず、わからないことが増えた気がしますね。 文芸って、一石二鳥という言葉を覚えてその成り立ちを知った時に古典的な考え方に触れる面があると思う。足元を見るというのは自分の心の中を見るだけじゃなくて、歴史が積み重ねた足跡をたどりながら今ここにいる自分を見るということでもあると思うのです。 文学はその足元を見ることに関し、他の分野より一番相応しい形でその役目を果たしてきたのではないでしょうか? 庵野氏が自作アニメについてそう語ったのは歴史的な物語や、その解釈を独自に変形させることで私物化しているとも思えるのですが、それはアニメだからやっていいというのだとその自由度の高さによる倫理観の崩壊を懸念するものだと思うのです。異世界ファンタジー文学など掲載しているサイトを閲覧しましたが、リアリティの欠如を楽しむ、それのなにが悪い? という思いが楽しんでいる人にはある。足元を見た時にその解釈を好きなように出来るのなら、倫理は要らなくなってしまう。それが行為として現れなければ罪は問いづらいかも知れません。実際行為としての犯罪は年々減少傾向にあります。しかし、自殺者が増え精神病者が増えている。これはそういうものの犯した罪ではないか? というのはありますよ。展開も内容も最初から最後まで滅茶苦茶なものを見た人が犯罪は犯さないかも知れませんが、心に病気を抱えたらどうするのか? と。 芸術が自信を失うということですが、信頼性が揺らいでいるということですよね? 例えば一つの部屋でなにか一つの音楽を皆で聴こう。その時に 「あんたがたどこさ」 を皆で共有していた時代と違い、今は好みにより分断が起きると思うのです。音楽がまとめるものでなく、分断を深めるものになっている。それで批判はやめましょうと言い始めると、無難な感想しかそれぞれに言えない。一人が歌詞が気になると言い始めると、歌詞のないBGMにしましょうと音楽を担当する人が決める。絵画も音楽もあらゆるものが今はそうです。 若い活発で健康な人は芸術より、異性やスポーツの方が当然のように楽しくなりますね。熱がないものを、健康者が求めることは変な話ですから。 ネットの荒らしの放置も熱がないことの反発へのニーズに応えている面もあるのかも知れませんが、その有効性に関してもどこまでのものなのかは、疑問です。 朧月夜さん、スレオペとかは関係ないから このスレッドは、創作サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書く場所で、詩サイトの住民なら、ときどきは詩とは何かと感じることもあるのだから、わざと荒らさないかぎりにおいて、詩とは何かの文字を繰り返して書き並べているだけだと何も感じていないのと同じで、つまり、悪用?しないかぎりにおいては、切り口はひろいから何でも話してもいいのかもしれないけど、切り口をひろげすぎて、より悪くなるのなら書かない方が身のためだし、中からういういしい命が生まれて不死鳥のごとく生まれ変われるのならやはり何でもいいのかもしれませんね。なので、スレオペとかは、関係ありませんので悪しからずなのです。 コメントしたかったのは鏡文志さんの詩のリレーと朧月夜さんの連詩について この2つって感覚的に違いを書くと、私は連詩は詩ではないのではないのかと 疑念を持ち続けているのですが、愉しいですよね。そして、詩のリレーは、 その疑念をある程度、薄めてくれながら愉しさを維持しようとしているのでは と感じましたよ。 具体的には、やってみると分かりますね。そして繰り返して連詩することで 文字の本質は字書に書かれた文字ではなかった子どもの頃を取り戻すことに なっていけば、現代詩も読めてくるように感じますね。うまくいえないけど。 そういえば、そのむかし、詩のフォーラムというロストワールドのサイトに 連詩の部屋というのがあって、わたしは、そのときは連詩の部屋のスレオペ みたいなことをやってその部屋も含め何度か荒れてしまい手をひいたことを 今、いきなり都合よく思い出しましたー(^_^)。 連詩は愉しいですよ。 鏡文志様。はじめまして。 連詩のことをおっしゃっているのかなと思うのですが、わたし自身はあまり連詩に参加したことはなくって、スレオペの足立様とかであればいろいろと知っていらっしゃるかな、という感じです。 いろいろと書かれていらっしゃいますが、古典ということについてだけ。一昔前までは、「古典なんて学んでも芸術なんてできない。芸術は感性の仕事だ」という人がいたり、その一方で、「成功するものはすべて過去の作品に現れている。王道がすべてだ」という人がいたり。 ただ、どちらも芸術全体に敷延するのには無理があって、それでそうした極論に走る人は減っているかなという感じがします。それと同時に芸術って何? といった自信の喪失も起こっていると思うのですが。 詩の話ではないのですが、誰が見ても分かるマニエリスムから始めた庵野秀明氏が、「エヴァンゲリオンというのは僕のことを描いた物語なんです」と言ってしまう。言うに至って……そういうことが、今の表現世界の現状で、なおかつ課題なのかなと思っています。 初めまして、朧月夜様 詩でリレーをしようと言うような言葉の遊びを繋げるそこで輪を作ろうとしている。それは噺家が言葉の遊びで輪を作ろうとする姿に近いと思うのです。芭蕉の時代も詩人同士の共作がありました。確かに分野としては区分けはありますが、共通するところはあると思う。 他人の動画をそのまま貼り付けたり、文章をコピペしたり、創作性が認められないものが一般ユーザーは大半だと思うんです。そこで自分の文章言葉だけで勝負しようと言う姿勢だけでも見せている方々ですから、質はやはり他の一般投稿サイトと違うと思いますね。それは創作系は他にもありますが、文芸サイトだけあって、古典を一応は意識してると思う。それが出来ている創作サイトって中々ないですから。 利益にはどこまで繋がってるか? どちらかと言うとマイノリティに属するものだと思いますが、マイノリティから広がっていくのはエンタメの基本だと思うし、ここから世界で通用する才能が出てくることもあると思ってます。後文芸サイト系では他のサイトよりパワフルが許容されていること。パワフルエネルギーはアートの基本ですから、それが許容されるのは健全ですよね。実は私過去に他の文芸サイトで過激なものを書いて、ビーレビに行ってくださいと言われて過去の全部の詩管理人に無断で削除されてしまいました。 スレオペ様をさしおいて…… 鏡文志様。 噺家が多い、というのは面白い視点ですね。 小説などに比べて意味や筋道などを重視しない、 というのが詩の特徴でしょうし……。 今後どんなふうになっていくのか気になりますね。 文学サイトは門外漢ではないか? と思う時もあるほど私はコメディーエンターテインメントが好きです。色々作品を読んでいると、噺家がいっぱいいるなあと。普段話してると、一人で話にオチをつけられない人の輪の中にいる。それは『あ』と相手が投げたボールに『い』と返すようなものだと思う。だけど噺家というのは、自分で最後まで話にオチをつけて、それを聞いたもう一人の噺家がまた新しく最初から最後までオチをつけて返すようなことだと思うのです。上手い人に囲まれていれば自分も上手くなる。環境は大事ですね。僕も利用し始めてから上手くなってる実感があります。 詩にコメントを入れない人を『俺様』度で表すようなことをこのサイトではやってる記述をどこかで読みました。コメントするかイイネするかも、自分の実人生実生活とうまくリンクするか、接点を見つけられるかみたいなことだと思う。接点を見つけられるものは積極的にアクションしています。 好きな詩人は田村隆一、中原中也、チャールズブコウスキー。 詩人のイメージですが 「嘘偽りをつくことを躊躇い、正直であろうと務める真面目な人」 というイメージがあります。美文が書ける人を詩人だとはあまり思わない。視覚的なイメージを嫌う人が多い印象もありますね。嘘をつかないとは思わないな。嘘をつかないというのは自省がなく、正直でない気がする。腹が正直であることが第一で、口第一じゃないかな? そんな感じです。 ひとことダイアリーでまた切れてしまったので。 ギーク的に。縦書きにルビ。しかもルビをつけても行間の幅がほとんど変わっていない。それはかなり難しくて、このサイトはかなりテクニカルにプログラミングされている。なので、片野さんの作品なのですよ。現代詩フォーラムは。 だめだね、100文字に収められないって。 秋葉竹さんの詩が良いと思っているのですよね。ただ、ずっと言葉に出来ない感じがしてきていて、とくにコメントなどもつけてこなかったのですが。表現として完成されている、それゆえに一見代り映えしないように思えるのかな、というのであまり皆様からのポイントがついていないようなのですが、わたしも氏の詩は読むときと読まないときがあり、というのは、その「一見代わり映えしない感じ」、というのがわたしには逆に重く見えていて、というのはある時に「悲しみなんて」と書いているのと、別のときに「悲しみなんて」と書いているのではまったく別のことのように感じられ、その奥にあるものも注意深く読めば透けて見えるのですが、それを見ようとすると作者の膨大な生活史や精神史というのが見えてきて、わたしとしては圧倒されてしまうのですよね。ですので、今日もお元気で何よりです、という思いに甘えて、読まないことがあります。秋葉竹さんの詩はそんなに長いというのでもないですから、読むのが面倒くさい、というのではないのですが。ただやはり、一回一回そこに別のものを読み取らなくてはいけない、という感覚が分かると、ぞっとしてしまう、というのはあって。ひだかさんやホロウさんの詩と同じく、やはり「そこにあるのは同じようでいて、同じものではない」というのを見るのが良いかなと思うのです。ですが、そうすると皆様にとっても秋葉竹さんの詩は重いものになってしまうのかもしれず、それを勧めることには迷うところもあります。 またひとことダイアリーで切れてしまったので。 慣れた方法で書きましたね? という感じの詩にはポイントはつけないのですよね。変わらない巧みさ、という詩にはポイントをつけますが。前者は、ロイヤルストレートフラッシュは、本当はスペードだけなんですよ、という意味でそうしています。 ひとことダイアリーで切れてしまったので。 前にも書いたことなんですが、ネットの民意自体もすでに民意じゃない、という感じがしています。具体的なエビデンスとしては、今の若者が一番多く使うSNSがLINEで40%くらい、次がXで15%くらい、という調査。LINEって、そもそもSNSではないし。 偉そうにカタルことでもないとは思うんですが、やはりそういう自覚がないと危険かなという。この調査の記事自体はYahoo!に掲載されていたものですけれど、気に留めた人はあまり多くいなさそうだったな、という印象。まあ、それはそうですよね。 そういうことより、LINEという、インターネット以前のパソコン通信?の時代のような局所的な集まりのほうが、開かれた場所の情報よりも拠り所にされている、というのが、順調に社会はそういう方向に進んでしまったんだな、という感慨を持つものです。 室町さま、おはようございます。 たぶん、それぞれの人にそれぞれの詩があるから、どんな詩もありなんでしょうけれど、 個人的には、やはり限度はあってほしいかな、ということは思っています。 父の介護で忙しいので、コメントをいただいても、レスはまあ遅れます。スマソ。 1 2 3 4 5 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。
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