レレレのレッ!
佐々宝砂

私はら抜き言葉がとても嫌いだった。「ら抜きの殺意」を抱きかねないほど嫌いだった。しかし最近はだいぶ慣れて、ら抜き言葉にでくわしてもなんとか耐えられるようになってきた。耐えなきゃいけないなあと思ったからである。

「耐えなきゃいけない」と思った理由のひとつは、ら抜き言葉が方言である可能性だ。私が住んでいるのは静岡県遠州地方なのだが、東海地方から北は昔から方言としてら抜き言葉を使ってきたという説があり、言われてみれば、遠州弁のじいさまばあさまもら抜き言葉をネイティヴに使っているような気がしないでもない。あんまり確証はないけど、方言かもしれないなら、ら抜き言葉を差別してはいけない。方言を嫌ってはいけない。まして自分の住む地方の方言を嫌ってはいけない。方言は豊かなものだ。私の倫理感覚はそう主張する。

もひとつの理由は、言葉はだんだん変化する、変化はいたしかたない、ということ。今のところ可能を示す助動詞として「られる」と「れる」のふたつがあるが、どの言語においても文法はだんだん単純になってゆくものだそうで、日本語の可能の助動詞もやがて「れる」ひとつに統一されることは避けられないだろうという説がある。ならば、ら抜き言葉は未来の言葉なのかもしれない。避けられない未来に対してぐちゃぐちゃ文句たれるのもなんである。

そんなこんなで、私は、寛容にもら抜き言葉を許してやることにした。人間、やればできる。「起きれる」、ああそうですか。「着れる」、かまいませんよ。「見れる」、気にしませんとも。え? ええ。普通に「見れる」というぶんには、まあかまわんです。でも、あれはねえ、あれは、ちょっと。某会社の某CMソング。「いつかきっと見えるよね〜」と歌ってほしい。あの歌の場合、「見れる」と歌われると、たいへんに気色わるい。なんとかしてくれ。誰が作詞したのか知らんが、「会える」と字数を合わせた対句にするなら「見える」にするのが自然だろっ。「見える」にするほうが綺麗だろーっ!!!

ひとりテレビに向かって怒鳴りつつ、私は気づいた。笑って許せるら抜きと、微妙に許せないら抜きがあるのだ。「見れる」は、微妙に許せないら抜きの代表。なんで微妙に許せないのかとゆーと、わざわざ「見れる」または「見られる」と言わずとも「見える」ですむような気がするからなのだ。「見える」って言葉、可能の意味を含んでるでしょ。「ねー、そこからあれ見える?」って訊ねたりするでしょ。「見れる?」でもいいにはいいけどさ、「見える?」のほうが綺麗だよ、絶対に綺麗。よっぽど可能の意味を強くしたい場合はさておき、わざわざ「見られる」「見れる」という意義が見いだせない。私の言語感覚ではね。


と、ここまで書いたのは実は前置きで、やっと本題なのだった。

ら抜き言葉よりさらにさらに許し難い言葉遣いがあって、それこそが「れ足す言葉」なのである。「れ足す言葉」とは何か。それは、「れ」が要らない動詞に「れ」を足してしまう恐るべき無駄言葉なのであった。「書ける」と言や済むところを「書けれる」と言い、「行ける」と言えばいいものを「行けれる」と言う。あれは、ひじょーにきもちわるい。すげーきしょくわるい。誰かに、ぜひ、なんとかしてもらいたい。あるいは、「れ足す言葉」の存在理由存在意義を私に説明してもらいたい。納得できたら、私は「れ足す」を許すつもりだが、今のところ、自分自身では「れ足す」の存在意義を発見できない。

もうすこし詳しく説明しよう。

「行かれる」はいいけど「行けれる」はいけない。なぜか。「行かれる」という言葉は、五段活用動詞「行く」の未然形「行か」に助動詞「れる」がついたものだ。これは正しい日本語である。一方「行けれる」という言葉は、下一段活用の可能動詞「行ける」に無理矢理「れ」を足しているのだ。

日本語には、「れる」「られる」という助動詞を必要としない、すでに可能の意味を持つ動詞「可能動詞」というものがある。「行ける」は可能動詞のひとつである。可能動詞はたいてい下一段活用になる(例外があるかないか私にはわからないので「たいてい」とした)。「愛する」といったらサ行変格活用の普通動詞で、「愛せる」といったら下一段活用の可能動詞。「愛する」と「愛せる」、「行く」と「行ける」、「読む」と「読める」は、それぞれ活用の違う別な動詞。わっかるかなあ。私の説明わるくてわかりにくかったらごめん。

「行けれる」という言葉は、可能動詞にさらに可能の助動詞をくっつけているので、屋上屋を重ねているようなもの。それこそ「いにしえの昔の武士の侍が馬から落ちて落馬して女の婦人に笑われた」とか「頭が頭痛でがんがん痛い」とか言うようなもんだ。つまり「れ足す言葉」の「れ」は無駄だ。どっか行け、「れ」! 消えろ消えろ!

いやしかし怒ってはいけない。落ち着かなくては。

わが遠州地方には、可能動詞を長くのばす方言がある。「行ける」で済むところを「行けーる」と言う。否定にするなら「行けーない」になる。これはもしかして「行け得る」と言ってるのかもしれず、ならば、屋上屋を重ねており、「行けれる」に近い言葉だと言える。あるいは「行き得る」が訛ったのかもしれない、それなら屋上屋ではないが、「れ足す言葉」は方言かもしれない、という可能性を私は否定できない。方言ならばよい。「れ足す言葉」が方言ならば、私にとってみれば語彙が増えた気分になる。「行けれる」も許せれるよねと思えれる(笑)。


だが私の言語感覚は、まだ警鐘を鳴らす。「れ」が、ただ単に無駄なものであるならいい。あるいは方言であるならいい。しかし、もしも、もしもだ、可能動詞というものの存在を知らないがゆえに、いや正しく言えば可能動詞に可能の意味があることに気づかないがゆえに、「れ」が足されているんだとしたら、私はとーってもいやだ。おそろしい。危機感を覚える。

誰か、私を納得させてくれー!


散文(批評随筆小説等) レレレのレッ! Copyright 佐々宝砂 2004-02-27 17:40:00
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