犬の名は全て一郎     (お暇な時にでも読んで下さい・・・)
ふるる

一郎は華子と2つ違いのいとこ同士。二人は親の家が近いこともあって、よく一緒に遊んでいた。
今日は華子の屋敷の庭の竹やぶにいる。
「一郎ちゃん、今日は一郎ちゃんが犬をやって頂戴。」
「華子ちゃんはずるい。昨日もおとついも華子ちゃんは犬でなかった。」
「いいのよ。今日と昨日とおとついと一郎ちゃんが犬で、明日と明後日と明々後日は華子が犬なんだから」
明日と明後日は休日で、休日は遊ばないことになっている。
華子より年上なくせに、一郎はいつも口で言い負かされていた。
仕方なく犬をやっていると、勝手口から、白髪にステッキの男が出てきた。二人の祖父の昌造である。
「なんだ、一郎はまた犬か。」
おもしろそうに昌造は声をかけた。バツが悪くて一郎は黙っていたが、華子はぺらぺらとよく喋る。
「そうよ、だって一郎ちゃんは犬がとっても上手なの。たとえば、犬が木の根元でおしっこするでしょう。一郎ちゃんはちゃんと片方の足を上げて真似するのよ。それから、においをかぐときも、犬そっくり。」
「ははあ」
昌造はにこにこ笑って二人を見ている。
一郎はますますいたたまれない気持ちになって、すっくと立ちあがった。
「俺、もう帰る。」
「なによ。まだ少しっか遊んでないよう。」
口を尖らせている華子を置いて、さっさと踵を返す一郎だった。

まあ、そんな仲の良い二人だったが、年頃になるにつれ、遊ぶこともなくなった。
華子はすくすくとかわいらしく成長し、今や十六。一郎は十八だ。
桜の花もほころびかけるかといううららかな3月の日、一郎は華子のおかしな噂を耳にした。
「あの角のお屋敷の華子嬢は、犬を集めているらしい」
「集めているどころか、様々な芸をしこんでいるらしい」
「その芸は門外不出のものであるらしい」
「しかも、犬の名は全て一郎であるらしい」
犬を集めて芸をしこんでいるまではよかったが、その名が全て一郎というのは聞き捨てならない。
一郎は母に問いただしてみた。
「どういうことですか。華子ちゃんの犬の名が全て一郎というのは。」
おっとり屋の母は頬に手をあてて答えた。
「私にはよく分からないわ。美津子は昔から華ちゃんの好きなようにさせてきたからねえ。あなた、丁度よいわ。静岡のおばさまから苺が沢山来たから、あちらに行って、真偽の程を確かめてきて頂戴。」
美津子というのは、一郎の叔母、一郎の母の妹である。逆に母に頼まれてしまった。薫り高い苺のつまった籠をぶらさげて、一郎は華子の家の門をたたいた。
「どなた?」
門の向こうの声は、まさしく華子である。
「僕だよ。静岡から苺が来たから、持ってきた。」
「一郎ちゃんね。苺を持っているの?」
門の向こうでは、数匹の犬とおぼしき息づかいが聞こえてくる。
「持っている。」
「沢山?」
「沢山。」
「このまま門をあけたら、みんな食べられてしまうわ。一寸待っていてね。おじい様、一郎達をお願いします。」
「よっしゃ」
昌造の声もする。
しばらく待たされた後、門がぎいと開いた。華子のくりっとした眼がのぞいた。
「こんにちは。」
「しばらく。」
ちょっと面食らって一郎は答えた。華子と会話をするのは、一昨年の正月以来だった。去年は伯父が急逝し、喪中のため年始の挨拶はなかったのだ。その間にすっかり女性らしくなった華子だった。葵の矢羽の着物をたすきがけにし、つややかな黒髪は後ろできりりとしばってある。一郎は咳ばらいして続けた。
「これを。」
「苺ね。ありがとう。どうぞ、お上り下さい。」
一郎から苺の籠を受け取ると、華子はすたすたと屋敷へ続く石畳を行ってしまった。

後に続いて屋敷に入ると、祖父が縁側に呼んだ。子犬が2匹、まとわりついて、手のひらを舐めている。
「香津子はどうだい。」
一郎の母のことである。
「相変わらずですよ。おじい様もお元気そうで。」
縁側の様子が以前と違うので見ると、縁側の横にしつらえた盆栽用の立派な棚に、何も載っていない。祖父が大切に育てていたものが沢山あったはずなのだが。
「盆栽はどうしました。」
「みんな一郎達にやられたわい。」
おかしそうに子犬の頭をぽんぽんたたきながら昌造はいった。
「僕のせいみたいに聞こえるじゃないですか。第一ですね、一郎という名の犬を何匹も飼って芸をしこんでいるというのは事実なんですか。」
「うん。世のため、人のためじゃ。芸をしこんどるのは嘘だがな。」
訳が分からず、二の句を告げずに困っていると、きちんと身なりを整えた華子が、薄いガラスの皿に苺を盛ってやって来た。
「とてもおいしいわ。おじい様召し上がる。」
「華子、一郎が説明してくれいと言っているぞ。」
「何のこと。」
「とぼけないでくれ。犬に僕の名前をつけられるのは心外だ。」
「だが、犬と言えば一郎だろう。」
「ちゃかさないで下さい。ちょっと、この犬たちをなんとかして下さい。」
さっきから一郎に興味津々の子犬が、顔を舐めたり手を噛んだりするので、一郎は抗議した。華子は一郎の隣に座って尾をちぎれそうに振っている子犬の体を撫でながら、話し始めた。

「一郎ちゃん、盲導犬てご存知。」
「盲導犬?前に新聞で読んだが。」
まだ日本では盲導犬の歴史は浅く、昨年やっと国の補助を得て、盲導犬を育成する施設が整ったと報じられていた。
「私、女学校のお友達のお父様からそのお話を聞いて、とても感心したの。だって、目の見えない方の目になり、足にもなれる犬なのよ。」
「まさか、盲導犬を育てているのか。」
一郎は驚いて目を見張った。
「ご名答。盲導犬はね、1才までは、里親のところで丈夫な体に育てるのよ。うちなら庭を荒らしても大丈夫だし、兄弟で飼った方が、情緒が安定するのですって。」
縁側から眺める限りでも、屋敷の大きな庭は、風に乗せて良い香りを運んでくる梅の根元や、青々とした松や池の周りなど、あちこちほじくった後があった。華子の父はそういうものに無頓着で、昔から庭は近所の子供の遊び場のようになっていた。一郎や華子もその庭に遊んでもらったようなものなのだが。
「これはひどくありませんか。」
「これはこれで別の趣じゃ。」
昌造も気に留めていないふうだ。
「ではそれはいいとして、何故みんな一郎なんだ。」
「だって、1才過ぎたら訓練所にやってしまうんだもの。みんな同じ名でいいと思うわ。」
「ではなくて、何故僕の名なんだ。」
詰め寄ると、華子は黒目がちな瞳で、じっと一郎を見た。
「一郎ちゃん、ちっとも遊んでくれないのだもの。」
「・・・・・」
「一郎ちゃんが遊んでくれなくなってから、華子はずーっとずーっと寂しかったの。」
「遊んでくれなくなってからって・・・いつの話だい。」
「八年前くらいからよ。この八年間、華子は寂しかった。それで、犬でも飼ってみようかと思って。」
一郎は困った。話が、あらぬ方向へ行こうとしている予感がする。それに、華子にじっと見つめられると、訳も無く頬が熱くなる。
「でも、一郎という名の犬をどれだけ飼っても、だめだったの。犬はとてもかわいいけれど、やはり一郎ちゃんでないと。」
さすがに恥ずかしいのか、華子は頬をほんのり染めて、縁側にのの字を書いている。
「華子、一郎ちゃんの許婚になりたい。」
まさに、晴天の霹靂とも言うべき、華子の告白だった。犬の名のことを問うつもりが、こんな事になってしまうとは。
「だがしかし・・・成長してからは年始に会うだけなのに、許婚なんて。」
激しくなる動悸をなだめつつ、やっと一郎は言った。そんな一郎を見ながら、華子は尋ねた。
「一郎ちゃん、一昨年のお正月におじい様から盆栽を頂いたでしょう。」
急に話が変わったので、一郎はとりあえず頷いた。一昨年の年始の挨拶に集まった折、何故か祖父から松の盆栽を譲られたのだった。
「大切にしている?」
「ああ。時々水をやって、日にもちゃんと当てている。」
「お・・そろそろ年寄りは退散しようかの。」
盆栽の話になると、それまで黙って二人のやりとりを見守っていた昌造が急にそわそわして、庭に出た。犬たちも後に続く。それを見送って、華子はふっと何かを思い出したように笑った。
桜の花がほころんだようなその笑顔に思わず見とれていると、
「そういう、素直なところがいいの。一郎ちゃんは。昔とおんなじ。」
華子は真顔で言った。
終わりかけの梅の枝で、鶯がホーホケキョと鳴いた。

気恥ずかしくてそれ以上はいられずに、一郎は華子の屋敷を後にした。
「只今。」
「あら、随分ゆっくりだったのねえ。あの件はどうだったの。」
母が聞いてきた。
「どうやら、盲導犬の里親をやっているらしいですよ。お母さんもご存知でしょう。以前新聞でご覧になって、すごいわねえ、っておっしゃっていた盲導犬。」
「まあ。」
「そんなことより、華子ちゃんが、僕の許婚になりたいと言ってきたんで、吃驚しましたよ。どうも冗談ではないらしいし。」
「まあ・・・・。華子ちゃんが・・・。恋は盲目と言うものねえ。それで、盲導犬なの?」
とんちんかんな、的を得ているようなことを母はつぶやいた。

さて。それから、一郎は華子の屋敷に足げく通うようになっていった。やはり、一郎も男、桜の花のような華子に好きと言われれば嬉しいに決まっている。
二人は日に日に親しくなっていくのだが、一昨年祖父から譲り受けた盆栽が、紙と粘土で精工に作られた偽物だと知らされるのは、もうしばらく後の話である。


                                   完



散文(批評随筆小説等) 犬の名は全て一郎     (お暇な時にでも読んで下さい・・・) Copyright ふるる 2006-03-08 12:09:41
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