視覚詩のお勉強 ステファヌ・マラルメの詩について
ふるる

>>さて、ところで詩の余白ということに最初に着眼した方は1900年に活躍した詩人のマラルメさんらしいのです。

と前回「視覚詩と北園克衛 (と私の好きな視覚詩)について」の中で書いてからはや2ヶ月たちました。
その間に、図書館でマラルメに関する本を借りたり、ユリイカのマラルメ特集を買って読んだりしました。

ここから先はすっごく長いし、引用ばっかりなので、興味とお時間がある方で。
(しかも、時々修正ありです・・・。)
結論は最後の方に書いてあります。(大したことないけど・・・)

難しかったです。
というのは、マラルメ(1842-1898)は
「高等中学の英語教師をつとめながら50編にみたない詩を発表し、そのどれもが難解であったにもかかわらず多くの信奉者を生み出し、彼の自宅で開かれた「火曜会」
には文学者、画家、音楽家など多くの俊才を集め、そこから19世紀末から20世紀にかけて、フランスの文化を主導する人々を育んだことで知られている。」(1)わけで、
ひとたびマラルメのことを紐解こうとすると、印象派や後期印象派、ナビ派の画家たちやドビュッシーやヴェルレーヌやランボーやブランショ、ジャポニスムなども出てきて、とてもさらっと読むことはできません。
さらに、マラルメの書いた評論も文学・音楽・演劇・舞踏など多岐にわたり、詩も色々で、それに関する後世の人が書いた論文も多数で、何をどうしたらよいのやら。

なので、視覚詩で気になっている「余白」について、マラルメはどう思っていたのかに絞ってみました。
ユリイカのマラルメ特集を見ると、ありました。
「余白に何が書かれているのか?(竹内信夫)」「白のメトドロジー詩人ステファヌ・マラルメの世紀末(高山 宏)」を読んでみました。

が、はっきり何がどうとは言えません。(だめじゃん)

ちょっとマラルメに関連する哲学とか時代とか芸術が深すぎて・・・・
上の二つを読むだけでも、向こうにかすかな光が見えるけど、うっそうとした木が邪魔で見えない、なかなか前に進めないという状態です。

キーワードだけ抜書きすると、
「マラルメが「意味」によってでなく、言語の内的な法則に頼って詩を製作するタイプの詩人であることが
はっきりしてきた。」(2)
「詩人は音楽家同様に、意味よりも関係に、シューエルのいう語の「サウンド・ルック」に、つまり音やかたち、語のフォルム、沈黙の介在がつくりだすリズム効果、ページの上を横断する語の運動といったものに注意を向けるべきだ、とマラルメは言う。こうしてつくられた詩が「骰子一擲」であり、これは音楽の楽譜のように読まれるべきだ、とその「自序」は言う。(3)
「「言葉」は「もの」を伝えた時点で、その存在は消し去られてしまうのだが、マラルメはまずこれを拒否してみせる。言葉が透明な媒体ではなく、不透明な物質性をそれ自体帯びていることを、彼は強調する。中略「黒なきインク」としての流通言語に対して、あくまで「白い」紙の上にマッスとして「白の上の黒」として言葉の存在を物質化すること。(4)
「「沈黙」というネガティブなものに対するポジティブな評価。」(5)
「余白が黒い文字のマッスとの関係において、ひとつの意味を帯びることになる。」(6)

こんな感じです。
マラルメの考え方が、サウンド=ルックが意味に先行するコンクリートポエトリー(具体詩)の流れを生んだのだとも書かれています。
つまり、言葉の「音」に注目したということ、言葉を黒い物としてみて、それを置く紙の白を評価していた、ということがなんとなーくわかります。

もすこし詳しく言うと、
マラルメが亡くなる1年前に出版された、「骰子一擲(サイコロ一振りという意味)」という視覚詩集では、上にもあるようにその序文でマラルメは言葉から「意味」を剥奪し、
「意味よりも関係に、音やかたち、語のフォルム、沈黙の介在がつくりだすリズム効果、ページの上を横断する語の運動といったものに注意を向けるべきだ」と言っています。
さらに、
「私は大いなる感受性の助けを得て、詩と宇宙との内密な相関関係を理解するようになり、詩を純粋たらしめるべく、夢や偶然から詩を引き出してそれを宇宙の観念と並置しようという意図を抱きました。(25歳の時)」
(7)とか、
「私は「音楽」を作っているのですが、私がそう呼ぶものは語が幸福感をもたらしながら近づきあってゆくこと(これが第一条件なのは言うまでもありません)から抽き出される音楽ではなく、言葉の幾つかの配置によって魔術的に生み出される彼方であり、そこにおいて言葉はピアノのタッチのように読者との具体的なコミュニケーションの方法の状態にとどまっているのです。(51歳の時)」(9)とか、
「冴え冴えと輝く星座、それは個人の意志とは無関係な「純粋」な「関係」そのもののイマージュである。星座としてのテクスト、それこそマラルメの夢見たものではないだろうか。」(8)
とか、
あくまでも技術的に個人の意志とは無関係に、音その他の法則に従って言葉を配置したいと考え、実践していたようです。

(しかし、詩集の中では、「サイコロ一振りは決して偶然(不確定なもの)を排さないだろう」と言い、「すべての思考がサイコロ一振り(不確定なもの、確率的だけどその瞬間はきまってないもの)を放射する」と言っています。つまり、不確定なものは排除できませんでしたということをこの詩集で告白しているように見えます。)

へえ〜・・・・・。音の法則にしたがって、言葉を配置って・・・。
フランス語って、そうできるものなんだーーーー。
フランスの詩は、最後に必ず韻を踏む、脚韻というのが重要な意味と役割を担っているそうですが、マラルメは、それからも脱却したかったみたいです。

これだけではなんともですが、以下はこれらを読んで、私の思うところです。

マラルメはみんなが当たり前に使ってる言葉や詩の決まりのことを「つまんねーな」と思っていたのかなあと。(つまんねーなというよりは、もっとすごい存在の耐えられない軽さ、虚無感、神の不在、が引き金となって?)
(その時代は、あるものをあるようにきれいにきれいに描写する、というのが文学や絵画では認められていて、マラルメはそうじゃない、印象派の人や抽象派の人たちを評価して、時代の流れもそうだったから)
(本によれば、マラルメは自己の虚無感にさいなまれ(これは世紀末にはやるものらしいけど)、言葉を含める全てを「空しい」と感じていたそうですので、つまんねーなというよりは空しいな、かな?)
それで、どうしたかというと、言葉に新たなる価値を見出したということなのかな。
例えば「りんご」は「記号としてのりんごという言葉」だけど、「り・ん・ご♪」といういい感じの響きを持っているじゃないかと。あるいは見た目もいいじゃん。
それから、「       りんご       」と書いたとき、りんごの前後にある空間に、
りんごだけでは語られない何かを生み出すことができる、(読み取ることができる)
あるいは
「宇宙        りんご       みよちゃん」とかまあ何でもいいですが、
こう書くと、宇宙とみよちゃんをつなぐ別の役割、それに相応しい役割がりんごにもあるんだよ、
(星と星をつなぐと星座になるように)と発見し、教えてくれようとしたのかなと。

(それを、どうやってるのかは知らないけど、意味そっちのけで(だから難解と言われているらしい)音の法則に従って配置しているらしいのですが、マラルメ自身も人間だし、それは完全に空に浮かぶ星座みたいにはならない、というのが悩みだったらしいのですが、何でそんなことに悩んでるかなあと思ってしまいます。
私は美しさというのと、人為的かそうでないかというのはあんまり関係ないと思うけど・・・。
あくまでも、それを受け取る人がどう思うかの問題で。
↑すいません、ここの部分は私の読み違えのようです。マラルメの悩みは作品が人為的かとかそういうのではなく、言葉をある側面しか見ない(伝達や表現の道具としか見ない)のではなくて、もっと自由なふうに開放したいと、そういうことをしたいと思っていたようです。


結論〜

視覚詩というのは、つまりそういうこと(言葉の新たなる価値を見出すこと、言葉を開放すること)をしようとしているのかなあと思いました。
マラルメのやったことや、考え方がそのまま日本語や日本の詩や視覚詩に適用できるとは思わないけど(フランス語じゃないもん。だいたい日本語って、普通に書いてあるだけで絵みたいな感じがするし・・・。)そういう観点で言葉や余白を見たり、詩を書いたりするのは楽しいなっと思います。

私がどうして視覚詩とか、その余白に惹かれるかというのが分かりました。
それは絵だし、(フランス人だったら?)音楽でもあるからなんですね(多分)。
詩を読んで、それが一度に味わえたりしたらすごくお得だもん。
視覚詩は、一見限定的な言葉というものを使っている詩を、音楽や絵画を一度に味わえるものにできる、その可能性は充分ある、と言っているのかも。
あー、だから、視覚詩の題名は普通の詩の題名じゃあやだなと思ったのかな??
(詳しくは「独り言(視覚詩の題名ってものについて)」に書きました)

まあ、一応結論が出ましたので、視覚詩のお勉強はとりあえず終わりにします。
長々とした迷いながらの文章にお付き合い下さって、ありがとうございました。

もし、マラルメに詳しい方がいらっしゃって、「これは違うよ」というのがありましたら、よろしくご指導下さいませ。


(2021年、つまり15年後に自分から自分への補足)

15年前はほとんどピンと来なかった、詩を音楽のようにということ、今は分かります。絵を描いてると、色って隣り合わせの色によって全然見え方が違うのですが、言葉も一緒で、組み合わせ方によって全然印象が変わる。余白という沈黙も合わせて、どう言葉を組み合わせるかはとても大切だと思います。意味を剥奪というより、言葉の意味も音も形もひっくるめた、ベストな組み合わせを考えていく。それは、どの音も重要な要素の楽譜、どの骨組みも重要な建築、どの色や線も重要な絵画と同じこと。普通はテーマとか何かを現すために組み合わせると思われるけど、そうじゃなくて、組み合わせ方そのものが、作者の心の動きを現す。何が描かれているか、というよりは、音楽や建築のように、どういう佇まい、どういう動きをしているのかが、なんて言うか、言外や固定観念の外を現す芸術っていうことなんで、言葉で芸術しようとしたら、ベストな組み合わせを考えるってなり、結果として意味は分からなくなってしまうけど、きっと動きや佇まいは、配置の仕方で分かってもらえるはず。
実際、「骰子一擲」は意味不明でも動いてる感じ、自由な感じ、素敵な感じがするんです。マラルメがナビ派を推していたのも分かる。ナビ派は、何が描いてあるかより、色と形の組み合わせが重要なんだっていう派だったから。
ただ、ベストな組み合わせって何?どうやるの?については、作者の感覚としか言いようがない。しっくりくるとかこないとか。だから理解してもらうのは難しい。
これ理解するまでに15年もかかった(笑)イラストに興味を持って、本気で真面目に4年くらい取り組んだから分かったことなので、何がどうつながるかは分からないもんです。

(2022年、さらにマラルメについて補足)

最近、『編集の提案』津野海太郎、宮田文久編 ㈱黒鳥社2022 を読んで、マラルメについて大変興味深い文がありました。
マラルメは「世界の書」というものについての構想があり、初めは世界中のことが何でも書いてある一冊の本、という感じだったのですが、しまいにはとあるパフォーマンスを「世界の書」として、20冊くらいの綴じてない本を、何人かで年何回かに分けて朗読する、というイベント?を、全国民でやる、という風に考えていました。もちろん実現はできなかったけれども、今のインターネット上での色々が、それを少し実現してるなあと。
すなわち、1つの記号が様々な人に受け止められ、放射され、星座のようにつながってゆく世界の書。たとえば初音ミクという一つのアイコン、コンテンツ、概念が、色々な人の創作に利用され、発信者が受信者にもなり、、、という現代ネット世界。
また、メタバースの世界では、マラルメの提案したパフォーマンスが実現可能。
ただし、今のネット世界は売れるもの、分かりやすいものが「善」みたいなとこがあるから、難しいかも・・・。


注釈

1「テクストからイメージへ 文学と視覚芸術のあいだ 吉田 城著 京都大学学術出版社」58p2行目
2「ユリイカ九月号臨時増刊号第18巻第10号 総特集 ステファヌ・マラルメ」の中の
「白のメトドロジー詩人ステファヌ・マラルメの世紀末(高山 宏)」209p
3同上 222p
4、5,6、同上223p 8、225p
7、同上「骰子一擲とサイバネティクス ジャン・イポリット」260p
9、同上マラルメ詳細年譜 431p

その他読んでみた本
「詩のこだま フランス象徴詩と日本の詩人たち 水島裕雅著 木魂社」
「マラルメ全集? 詩の危機(←これはさっぱり)」


未詩・独白 視覚詩のお勉強 ステファヌ・マラルメの詩について Copyright ふるる 2006-02-01 16:56:18
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