Saudade.
芳賀梨花子

「あとにのこされたもの」

雲の隙間から
羽毛がこぼれおち
風にのる
海峡を渡り
山脈を越え
遥かかなたの砂漠まで
幌馬車が届けられない
あの砂漠まで

「月は地球の衛星である前に、
旅路支度が嫌いな星である」

真昼の月は真白く
なにも打ち消そうとはせず
それが追憶というものだ、と
わたしは追うもので
それに生きているうちは
わたしは少女でいられる
わたしはマリアさまのように
見たことも無いわたしの顔を
鏡の中にしまいこんだ
たとえ人の傷に塩を塗りこんでも
神さまは許してくださるのだろう
少女という存在はそういうものだ
だからこそ何を犠牲にしてでもこの想いだけは
届けなくてはならない

「生まれてきたものは思ったより強靭だ」

見下ろすとそこには広大な海原が広がり
風はギター弾きのように歌を歌い
黒い布をまとった女たちと
乾いた街並みに暮らしていた
言葉がわからないわたしは
ただ歌を聴きながら
その街を歩く
街角では
鰯を焼き
滾る油をかけて
人々は食らう
匂い
生活
そこにあるもの
そして
生まれてきたものと
全うしていくものの
狭間に食らう人々がいる

「目が覚めても夢は続いていることを、
誰も知らない国がある」

それは、うず高くがんじょうそうな
石垣に取り囲まれた小さな国で
入国審査がやけに厳しかった
わたしは疲労していて
宿屋のベッドで眠りに落ちる
混沌と眠り混沌と覚醒し
まるで夢が擦り抜けていくような
危うさを感じたので
せめて追憶だけはと
ポケットにしまいこんだ
ある程度にすぎないのかもしれないが
それなりの時間を眠りの底で過ごしたのだろう
わたしは無性に腹がすいた
なにか腹に入れようと
宿屋をあとにする
街は人影もまばらで
やっと見つけた婆さんに
うまいものを食えるめしやはないかと
尋ねてみた
婆さんは愛想笑いもせず
ましてや答えもせずいってしまった
どうやら、ここに暮らす人々には
風は優しくないらしい
わたしは叩きつけられたそれに
またがり次の街へ行こうと思う


「エニセイ河とパイプラインは郷愁を誘うものである」

大河のほとりで天秤をもった男に出会った
量ることが唯一の術だと信じている男
わたしは、試しに、その男に心を預けてみた
必死に量ることに徹する男
量れるはずの無い心を
天秤にのせて量り続ける男
あまりにも滑稽で
わたしは気の毒になってしまったので
心を返してもらおうと頼んでみたのだが
量り終わるまでは返さないという
わたしは途方に暮れるしかないではないか
男も、それでは、この哀れな旅人が
あまりにも気の毒だと思ったのか
小さな男の子を手渡してくれた
これで、もう寂しくはないだろう、と男は言うが
心が無いので寂しいかどうかさえわからない

「砂州が恋愛の温床であるという認識は
遠い昔の学問において否定されていない」

肥沃な身体をもてあまし
蠢く怪物たちが
出会う場所が砂州で
深い溝を覗き込んでは
そのあいだに指を滑り込ませる
毎夜営まれる
その行為は果てしなく続くので
わたしは教えてあげた
肉切ナイフでこそげとるような
残忍さではなく
あくまでも卵の殻をむくような
そんな行為で怪物は眠りに落ちるということを
そのすきに怪物たちの枕元で
強奪犯が横行するかもしれないが
たとえ、そうなっても
その大地は肥沃なので
芽吹くことをやめないだろうと


「大地の神が女神であるということを
忘れていたのかもしれない」

どんな言葉からはじまって
どんな言葉で終わったのかなんて
わたしには何も関係が無いことだと
そんなふうに思いはじめている
少女だったころの自分と
少女でいようとする自分の
身のほどを知ったということだろうか
それとも神が現実主義だったからだろうか
わたしは罪人になってしまった
風にまたがり旅を続け
身を隠す場所を探す
なにもない
どこにもなにもない
だが、なにもなくともよいのだ
罪人にはちょうどいい
追われる前に消えゆこう
ここで下ろして、と風に頼む
風はいぶかしげに
わたしを大地に下ろす
荒れ果てた灼熱が
焼き付ける、じりじりと
ここに横たわる現実も、じりじりと
長袖を着なくてはいけない
せめて、あの女たちのように
布をまとわなければ
無防備な肩がやられていく
それはまるで
失望というものが
あんがい簡単なことだ、と
教えてくれているようだ
身体は渇き果て
わたしは白くなるのだ、きっと、ここで
罪人にはちょうどいい死に様ではないか
だけど、届けようもない声だけは
この大地に埋めておこう、たいせつに
誰かが掘り起こして届けてくれるやも知れない
わたしは土を掘る
爪が折れても
声を埋めておこう
でも、大地は思ったよりやさしくない
乾いた土が舞う
あの羽毛のように
ただし、それは美しくはなかった
目にしみるだけだ
うかつにも涙がこぼれ
父に似た蜃気楼が浮かぶ
きっと、これが、父との最後になるのだろう
関節を失った骨のようなわたしは
背負ってきた荷を降ろす場所を見つけたのだ

「木菟の憂いは今に始まったことではない」

森に迷い込んでいた
旅というものはこういうものだ
終わったかと思ったら
こんな羽目になる
何時間も、いや何日も
わたしは歩き続けている
もう、いいかげん辟易としてきて
暇つぶしに話し相手がほしい
などと思っていたら
木菟がしかめっ面をして
猛禽類の失墜しつつある誇りを
切々とわたしに語りかけてきた
なんとも都合がよいので
わたしは木菟の話に耳を傾ける
ちょうど、その話が佳境に差し掛かったところで
ふと、わたしはいったい何のために
こいつの愚痴を聞いているのだろう
何か忘れてしまっているのではないか
と思いはじめていた
すると、それを察したかのように木菟は言った
できることなら伝えてほしい、と
ああ、これで、わたしは、再び声を手にすることができる
必死に声を上げるわたし、安堵し、胸を大きく開き声を上げる
この声は風がさらって森を越えていくのだろう
そして木菟も笑顔で飛び去っていく
見送るわたしの頭上で羽毛が舞う
わたしは右手をかざして
それを掴んだ

「靴を履くのをやめた靴職人」

靴屋はどこか、と森の鍛冶屋に聞いた
靴屋は旅に出たよ、と鍛冶屋は答えた
どうしよう、履きつぶした靴では届けられない
再びたずねた
花屋はどこか、と
そんなものは無い、と鍛冶屋はそっけない
この調子では菓子屋も本屋も無いだろう
だったらなにがあるの、と質問の仕方を変えた
あっちに石屋ならあるよ、と鍛冶屋は答えた
仕方が無いので、石屋に行くことにした
その石屋の爺さんは赤ら顔だけど
何でも知っていた
わたしがしなければならないことまで
爺さんから、それを聞き出すまでに
ゆうに三日はかかったけど
わたしは石屋の爺さんに丁寧にお礼を言って
ポケットに入っていたものを
すべて爺さんにあげてしまった
再び歩きはじめる
靴は破れたまま
でも、もう、そんなことは、どうでもいい
わたしは見上げる
空を見上げる
風は絶え間なく
真昼の月は真白く
あいかわらず
いろいろな想いが飛び交っている







自由詩 Saudade. Copyright 芳賀梨花子 2005-08-22 01:14:15
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