ゆうこく
佐々宝砂

父はつまらぬ魚屋でございましたが、係累は多うございました。
たいそう古くから魚屋を営んでいたと申します。
けれども嫁はどこの馬の骨ともつかぬと祖母は母を貶めました。
わたしは母の係累をひとりも存じませぬ。
嫁入り道具はただひとつ文箱があっただけと聞きました。

けれど母はあかるいひとでございました。
安物の絣を着ても大輪の芍薬のようにはなやかなひとでした。
わたしは母が本当に大好きだったのでございます。

母はたいそうおはなしの上手でございました。
浦島太郎は「うちゅうせん」に乗り桃太郎は「いすらえる」にゆき
うりこ姫は「ぶるうすとっきんぐ」に入り
白い衣の学者さまがおくすりをこねて大蝦蟇をつくる
白縫の姫も自雷也も母が語れば草双子より奇天烈なのでした。

ある日そんなおはなしをしていたときのことですが
母は不意に顔を曇らせ横を向きました。
「おかあさま、どうなさいましたか」と訊ねましたら
「懐かしかっただけなのよ、なつかしかったの」と母は申しました。
母は何を懐かしんでいたというのでしょう。
母が語っていたのは西洋の見聞録にもありそうにない、
世界のすべてを覆いひとびとすべてを繋ぐ蜘蛛の糸のおはなしでしたのに。

あれから何年も何年も月日が経ってしまいました。
江戸はおろか明治の御代さえ遠くなりました。
わたしは今、母が語ったゆめまぼろしをたいそうなつかしく思い返します。
世界すべてのひとびとを繋ぐ蜘蛛の糸。
海を越えて。ことばも越えて。国も越えて。ひとを繋ぐ糸。
そんなものがあったら。

息子よ。おまえは国を憂えて立つ、と言うのですね。
立派な考えがあってすることなのですから、わたしは止めませぬ。
止めませぬが、おまえのくわだては破れるのですよ。
おまえの名は残るかもしれませんが、それだけのこと。
刀はいずれ、ゆめまぼろしに破れるのですよ。

わたしの話はこれで終わりです。
あとはおまえの好きなように考えなさい。
ああ、もうずいぶん暗くなった。
雪になるかもしれませんね。




自由詩 ゆうこく Copyright 佐々宝砂 2003-12-17 04:09:00
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