書評: 『リバーズ・エッジ』/岡崎京子
mana

別格で、ほとんど崇拝に近いほど好きな岡崎京子だが、完全読破はしていない。『うたかたの日々』と『愛の生活』で躓いている。もう「年単位」の躓きだ。どちらもすでにラックで鎮座しているのだけれど。

それでもやはり、岡崎京子の代表作は『リバーズ・エッジ』じゃないかと思う。

手塚治賞受賞作である『ヘルター・スケルター』も悪くない。悪くないけど、『リバーズ・エッジ』はブッチ切りだ。読んでしまうともう、読まなかったことには出来ない、後戻りなんて許さない、そんな感じの作品である。

そして僕は勝手にだけど、「そう簡単にわかってたまるか!」みたいな印象をこの作品に抱いてる。場面、場面はわかる。作品としてもわかる。わかるけど、まるごととなると簡単には「わかった」なんて言わせない。そして、「わかった」と言わせないことで、この作品は引っかかり続ける。

ちょっと都会でちょっと田舎。そんなところで僕は育った。

僕が卒業した小学校の横には小さな川が流れていた。ある日、学校のフェンスを乗り越えた川原に、ちょうど学校に横付けするように死体があった。「土左衛門」だ。発見したのは男の子、僕はちらりとしかその水死体を見ていない。けれど思い切り気持ち悪かった。なんだかぐちゃぐちゃでぶよぶよで、それでも女性だとその衣服から判断できた。

まさに、『リバーズ・エッジ』。

ちらっと見ただけで、それは明らかに「気持ち悪かった」。けれど『リバーズ・エッジ』のなかで描かれる「宝物」は、どんなセリフで補われれても、主人公と同じように、なんだか遠い。遠くて、実感がわかない。そこに乾いたものを感じる。もうひとつ、この作品のなかで描かれている死体は焼死体だ。これもやっぱり乾いてる。

土左衛門からしばらくして、僕もまたもう一体の死体を見る。母親だ。トラック事故で下に巻き込まれ、数十m引きずられたらしいけど、雪道でほぼ外傷はなかった。見たのは病院の酸素テントのなかだった。引っ張り出したときは心停止だったそうだ。が、僕がみたそれはどうやら「生きてる」らしかった。「余計なことすんな!」って内心思った。

それはただの「モノ」だった。生きても死んでもいない、それが気持ち悪かった。僕は冷静で冷酷だった。動揺する余地はない。あるのは「モノ」だ。事務的に親戚の家の電話番号を教師に告げた。親戚が来て脳外科へ搬送したが、路面で救急車が跳ねるたびに瞼がパカパカしてた。それだけが怖かった。

脳外科へ移して3日後、それは正式に「死んだ」。やっと終った。生きても死んでもいない3日間、面会してたのは僕と叔母と祖母だけだった。その時の祖母の顔を僕は憶えていない。

祖母もまたくも膜下で倒れ、まるで娘と同じよに、一度死んで、生きても死んでもいない時を経て、そしてきちんと死んでいった。僕が知ったのは死にきった後だった。そのときは、どうして会わせてくれなかったんだ!って本気で思った。ブチ壊れた。でも今は、それで良かったのかもしれないと思う。僕の祖母は、僕のベッドに座って笑ったままだ。


  「この死体を見ると勇気が出るんだ」

  「アタシはね、“ザマアミロ”って思った」


こういう感受性がわからないわけじゃない。なんとなくわかる。けれどそれは、「なんとなく」であってほしい、「なんとなく」でとどまっていたい、そう思う。


散文(批評随筆小説等) 書評: 『リバーズ・エッジ』/岡崎京子 Copyright mana 2005-07-19 08:21:02
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