いっしょに食べませんか?
クリ

「聖餐」 「最後の晩餐」に由来するキリスト教の儀式。とても簡単に説明するとみんなでパンを食べ、ワインを飲むこと。
実はこれを詳しく説明しようとすると、ここだけでは到底終わらない。
まずパンとワインの意味するところが、カトリックとプロテスタント、その他のメインストリームで大きく異なるし、
さらにたとえばプロテスタントの中でもルター派と改革派で異なる、という具合になっているのである。
イエスはワインが自分の血であり、パンが自分の肉であると言ったとされる。これをどう位置づけるか、なのだ。
スピリチュアルなのか、マテリアルなのか、あるいはシンボリックなのかで様々に分岐するのだが、
これは「事実」と「真実」の捉え方の相違にも似ている。しかし突き詰めると宗教では事実と真実は大きな違いはない。
どのように解釈しようとも聖餐が信者に与えるものは同じなのだ。だからそこに大きな軋轢はない。
それよりも「いっしょに食事をすること」があまり議論されることがないのが、僕には常々疑問だった。
新約聖書では他にも、数千人がわずかのパンを分け合う場面などが出てくる。
少なくとも原始キリスト教徒には、食事を共にすることは大きな意義があった、と思う。

英語で「仲間」を何と言うか。そう、"company"だ。この言葉はラテン語の"companios"に由来する。
"com"はお分かりのように「ともに」などを表す言葉。"panios"は「パン」だ。
つまり"company"は「いっしょにパンを食べる」ことなのだ。人はともに食事をして仲間となる。
"companios"が聖餐を踏まえて発生した言葉かどうかは知らないし、どうでもよい。
日本語ではどういうか。こういう言い回しがある。「同じ釜の飯を食った仲」
つまり寝食を共にするほど親密である、ということだが、これこそ"company"だ。

大人が子供と大きく異なるところはたくさんあるようで、実際にはほとんどない。
どんな馬鹿でもいろいろ経験していけば利口に立ち回るようになる、それだけだ。
けれどとても特殊な状況ではあるけれどとても顕著な違いがある。
大人は今食べたものがとてもおいしいと感じたときに、傍らにいる仲間にもそれを食べさせようとする。
子供は全部平らげようとするが、大人は分けようとする。
赤子は乳房を独占するが、大人は酒を酌み交わす、という対比と…、ちょっと違うか。

さて、唐突のようだが、詩人とはどういう人種なのか? 僕はこう考える、「大人になりたいと願う人」と。
「このあいだ、とてもおいしいものを食べたんです。それはひとつしかなかったんです。
 だから僕がなんとか真似してその味を再現してみました。完璧ではないですが、似ていると信じています。
 あなたの舌に合うかどうかは別ですが、よかったら食べてみて下さい」
それは彼の血であり肉であるのか。言葉がそうならばきっとそうなのだろう。
彼は優れたシェフだと誉め讃えられたいのか。否。おいしい料理を食べさせたいだけだ。

さて、東京のど真ん中で始めてのファストフード店に入り一人でランチセットを食べようとしていたとき、
ちょうどあなたが入ってきたんですよ。ああ、この人も一人だなって。話が長くなってしまいました。
そういう次第で、いっしょに食べませんか? これ、おいしいんですよ、よかったら一口どうぞ。

                                 Kuri, Kipple : 2005.07.07


散文(批評随筆小説等) いっしょに食べませんか? Copyright クリ 2005-07-07 21:45:17
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