骨董品に念を感じますか
チアーヌ

わたしがいつも散歩をする道に、なぜか骨董品屋さんが三軒もある。
一軒は総合骨董屋というか、質流れ品のような貴金属や時計や絵なんかも扱っているの
だけれど、あとの二軒は食器が主な品揃えで、新品と骨董と取り混ぜていろいろ置いて
ある。
たまに気が向くと、小皿や茶碗などを買ったりするのだけれど、わたしが買うものは新品
に限っていて、骨董品を買ったことはない。
たまには柄が気に入って、欲しくなることもあるのだけれど、値段にかかわらず、
どうも受け付けない。
そういえばそうだった、とわたしは思い出しました。昔から、骨董品を身近に置くのが
嫌なのです。
これが、先祖のものであるとか、出所がはっきりしていればまだ良いのですが、
出所がわからないものは、どんなによいものであってもダメ。美術館とか公共の場所に
置くべきだとひたすらに思う。
美術品ならいいのです。そういうものと思うから。美術品なら大丈夫。やっぱり本物が
いいなあと思う。
でも、骨董品、特に日用品や食器類は、とても買って帰って使う気持ちにはなれない。
で、なぜ、嫌だと思うのか、ということを少し考えてみました。
まず単純に、「念」が篭っているような気がする、ということがあります。
でもだったら、絵や掛け軸に対しても同じことを思うかというとそうでもない。
そんなことをつらつらと考えていて、ふと思いついたのは、「わたしが女だから」
じゃないかなあということでした。
なぜそんなことを思ったのかというと、この間、年配の男性作家のエッセイ本を読んで
いて、その作家がしきりに「あそこの店はごはんの炊き方が良くない」とか「揚げ物が
まずい」とか書いていたのです。
それがいかにも、一度たりとも台所に立ったことが無い人特有の言い方で、
わたしは感心してしまったのです。
こういう人は気楽でいいなあ、とわたしは思いました。生まれてから死ぬまで、下働き
とは無縁な人生なのでしょう。
で、その人が、骨董のことを書いていたので、わたしはハッとしたのです。
そうか、わたしが骨董のお皿に念を感じるのは、女だからじゃないかなあ、と。
その作家は骨董の食器類が好きで、新しい食器などで食べたくない、とまで書いていま
した。
なるほどなあ、とわたしは思いました。給仕をして皿を上げ下げし、皿洗いをやるわけ
じゃないからこういうことが言える。
彼は、骨董の食器に篭る念など全く感じないのでしょう。
わたしはお店で手を触れただけで、これを冷たい水で洗い続けたであろう昔のどこかの
主婦や女中さんの念を感じてしまって嫌なのです。
別に、恨みなど篭ってはいないでしょう。大抵は。でも、そこはかとない念を感じる。
その、そこはかとない感じも嫌なのです。
これは、同性だから感じる「念」のような気もするのです。
最近は男性も家事をしますが、だからといって男性があの「念」を感じるとは思えない。
それほど、その「念」はそこはかと頼りないのです。
でも、それはたぶん確実に存在する。
逆にその「念」をも一緒に愛することができたら、わたしも骨董のお皿を買い求めたり
するようになるのかもしれません。でもまだ、そういうことはできないみたいです。
まだまだ修行が足りない、のかな。



散文(批評随筆小説等) 骨董品に念を感じますか Copyright チアーヌ 2005-06-03 23:56:09
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