ディズニーランド考
チアーヌ

浦安にあるアレである。
俗に「ネズミ園」なんて言って茶化す人がいますね。気持ちはわからないでもない。
日本一メジャーな遊園地だし、いつ行ってもひたすら混んでいるし、妙に晴れやかで、
悪口を言いたくなる人の気持ちはようくわかる。
わたしの夫なんかも、「あんなところに喜んで行く大人の気が知れない」などと言う。
大人はそういう人が多いみたいですね。
わたしも取り立てて、あそこが好きだということはない。自分から行きたいという事は
ほとんどないし、いつも子供の付き合いである。行くとしても年に1、2回程度だ。
でもこれが、門をくぐったとたんに、やたらとワクワクしてくるのですよね。
あそこは全くの異世界だ。
少なくても、千葉でも浦安でもないし、もちろん日本でもないのだ。
あそこの従業員はやたらとにこにこしている。等身大の人形がまるで生きているかのよう
にその辺を闊歩している。気がつくとそこらじゅうで意味も無く、一日中パレードしてい
る。夜のパレードはひどく豪華で、少し悲しくもある。
こどもたちは逆に、予備知識などないから、その世界に順応してしまうようである。
子供にとっては、あれは現実の風景なのだ。しかし、大人であるわたしにとっては、
奇妙な既視感を持って迫ってくる光景なのである。
わたしは遊園地の乗り物に乗れない。
だから大抵の遊園地では暇をもてあますことになる。
スリルのある乗り物に乗る趣味はわたしは全く無い。
でもあそこでは、ただ回りを見ているだけで、時間が過ぎてしまう。
夫は現実派なのでスリルのある乗り物があるとかの方がまだ楽しめるという。
たぶんそういう大人も多いのだろう。
現実的にはそっちの方が元を取った気になるのかもしれない。
ディズニーランドでは並ぶ時間が長すぎて乗り物なんかほとんど乗れないから。
でも、と思う。わたしは乗れなくても良いから、あそこのメリーゴーランドを眺めている
ほうが、スリルのある乗り物に乗ることなんかよりもずっと楽しい。
お金さえ出せば、非現実的な光景を見せてもらえる、それが遊園地なのだとわたしは思う
のだ。
ただぶらぶらと歩いて、アイスを食べて、ピザを食べて、一日中油っこい食事をして、
夜のパレードを見る、それが異世界での正しい一日じゃないかとさえ思う。
元を取ろうなんて考えてはいけない。お金は湯水のように使わなければいけない。
それでこそ幻想は目の前に「現実に」出現するのである。
それには、頭の中の切り替えも必要である。
そして、この感じは、わたしは少し、「恋」と似ていると思う。
恋をしたいとき、美しい女性、または素敵な男性を前に、「元を取ろう」なんて考えるの
は実に貧乏臭い考えである。すべてを出すのがいい。お金だけに限らない。
恋は幻想に過ぎない。だからこそ「理性」や「現実」を投げ出さなければそれに浸りきる
ことはできない。ケチケチしたくなるようなら、それは別に恋なんかしていないのだ。
恋人に出し惜しみするようになったら、それは「恋」が「情」に変わってしまった証拠で
ある。

全然関係ないけど、わたしはあそこのキャラクターは全然好きじゃない。なんでかわから
ないけど。あれでキャラクターがもっともっと非現実的だったらいいのに、と思う。
うーんでもこういうマヤカシも、見た目の良い人だけに恋をするとは限らない、というこ
とを示しているような気がする。

たとえ張りぼてでも、マヤカシでも、それでいいときもあるのだと思う。



散文(批評随筆小説等) ディズニーランド考 Copyright チアーヌ 2005-06-03 21:32:12
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