三木卓『わが青春の詩人たち』書評
佐々宝砂

「わが青春の詩人たち」三木卓著 岩波書店 ISBN【4-00-002642-9】\2,500

 本を読んでいて、巻末に著者年譜があると、いつも、現在の自分の年齢にあたる部分を熟読してしまう。この著作者は今の私の年齢のときに何をしていたのだろうか、とつい気にしてしまうのである。たとえば私は最近思うところあって新川和江の本ばかり読んでいるのだけれど、このひとの著作には、ときどき詳細な著者自筆年譜がついていて、昔から新川和江のファンである私にはもうだいたい知っていることばかりなのだからいちいち何度も読まなくたってよさそうなものなのに、それでも読む。それも自分の年齢にあたる箇所を読む。現在私は34歳(この書評は昨年執筆したものです、いま私は35になっちまいましたわい)、その年までに新川和江はすでに三冊の詩集を出し、小学館文学賞を受賞し、雑誌投稿詩欄の選者になり、テレビやラジオの仕事までこなしている。かたやこの佐々宝砂がどうであるかということについては、かなしいので触れない。詩人の卵だとしても、卵のまま発酵して腐りかけているようなもの。せめて、ピータンみたいにクセのある臭くて旨い古卵になりたいものだが、しかし、まあ、私のことなどとりあえずはどうでもよい。

 三木卓のやや甘やかな匂いのする(しかしそこには酒の臭いも貧乏の臭いも当然入り交じっている)追想を読みながら、私は、大好きな著者の年譜を読むときのような羨望と賛嘆と畏怖とを感じたのだった。私はこの本のなかにいない、この本のなかに入れない、この本に登場してくるような巨人の宴のうちには混じれない。末席を汚すことすら難しいことのような気がする。

 詩人たちとの交流の追想の本だから、当然のことながら、いくつも詩が引用されている。最初に引用されているのは、難波律郎の「黒い祈りの夜」。絶望に満ちたその詩に酔いしれる私に、三木卓の文章は、その詩を書いた難波律郎がまだ二十代半ばであったことを告げる。はあ、さようでございますかと私は溜息をつく。二十代半ばにしてこの詩、見事なもの、絶対私には書けません。そのあとにおかれた大岡信の二十代半ばに書かれた詩も然りで、私は呆然と感嘆しているほかない。年譜の読後感と同じである。ただもう、羨望と賛嘆と畏怖なのである。

 しかし、かれら詩人の群に入り交じった三木卓自身もまた、先輩詩人たちを畏怖し、おっかないと思い、とてもたちうちできないと感じていたのだと思う。そんなふうに読者に思わせる点で、三木卓はとてもやさしい。かれは謙虚であるというよりやさしいのだと私は思う。三木卓自身の詩業について、かれはこの本の中ではほとんど触れていない。かれの最初の詩集が出たときなんかものすごく嬉しかっただろうと思うのに(かれの最初の詩集『東京午前三時』はH氏賞を受賞)、かれはそのような自分の業績には触れず、詩人たちに対して感じた畏怖や自分の生活の不安や羞恥を、さらけだすでなく、隠すでなく、語ってゆく。

 登場してくる詩人たちは数多い。全部で何人いるのだろうと数えてみようとして、やめた。詩人を数にするなんて野暮だし失礼だ。そんな風に思わせる本だ。ほんのわずかしか登場しない詩人も、名前に過ぎないのではなく、詩の作者としてだけ登場するのでもなく、確かに血肉を持った人間なのだと感じられる。しかし、詩人たちが等身大に描かれているとは思わない。三木卓は、あくまで自分自身の目に触れた詩人たちの顔を描いている。たとえば、金子光晴は「恐ろしい」と書かれている(ついでに言うと、当たり前だが私にも金子光晴は恐ろしい)。

 文中には、詩人たちの印象的なエピソードがいくつも出てくる。ときどき気がちがう長谷川龍生、酒を飲むと目の色が変わる黒田三郎、九州の豪族のようだったという谷川雁……。とりわけ私に印象的だったのは、清岡卓行のエピソードである。清岡卓行の妻が病の床にあったとき、病気であることだけはみなが知っていたが、誰一人その病名を知らなかったという。清岡卓行は、たぶん、とても親しい人にも自分の苦悩を見せなかった、妻の病名さえ明かさなかった。しかしかれは、病んだ妻が亡くなった葬儀では、大粒の涙をこぼしてぬぐおうともしないのである。いかにも清岡卓行らしい話で、せつない。


 四十年以上も前のことを語っている本だから、故人の名が多く出てくる。生きてこの本を書いた三木卓が、まるで「生き残り」のような気さえしてくる。生き残りが語る青春の記録。アパートの煎餅布団と、安ウイスキーと、アルバイトと、共産党と、貸机ひとつの小さな会社と、失職と、それからもちろん詩と、議論と……。三木卓が「わが青春の」と語るその時代は同時に戦後現代詩の青春でもあったのだ、と誰にでも言えそうなことを訳知り顔に言ってこの書評を終わりにしてもいいのだけれど、なんとなくそうしてしまいたくない。

 それじゃここにいる私はなんなのよ? 三木卓の子どもの世代にあたる私が、ネットという新しい土俵で書いてる詩はなんなのよ? と私は考える。衰退した現代詩の世界に、それでもおずおずと参入しようとしているネット詩人でしかない私、あるいは私よりもっと若いネット詩人たち、まだなにごともなしているとは言えない私たち、しかし、ネット詩に青春があるとするなら、それは紛れもなく、今だ。青春とは激動の時代である。私は生き残れるだろうか。正直に言えば、ここで生き抜く自信が私にはない。私は過渡期に生きて消えてゆく泡だ。いずれ誰かが『わが青春のネット詩人たち』を書くとしても、それを書くのは私ではない。そしてその本は、三木卓の著書のようには人間くさくなく、優しくもないものになるだろう。ネットでは、人の姿が見えないものだから。

 それでも、それでも詩の背後には常に人間がいる。次世代を担うのであろう十代のネット詩人たちの詩を読みながら、私はそう考えるのである。


散文(批評随筆小説等) 三木卓『わが青春の詩人たち』書評 Copyright 佐々宝砂 2003-12-03 02:26:05
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