日記、あるべきことの哀しさ
由比良 倖

8月19日(土)、
 セミの、声がする。僕には、認識出来ないことが多すぎる。分からないことは、ほとんど想像力で補っている。セミは風鈴のように、ただ自然音として鳴いているのか。それとも、あるべき寿命の中で、あるべき姿を、今だけの生命を、必死に鳴いているのだろうか?
 どちらでも同じこと、と言って済ませられることは多い。セミになってみないと分からないし、セミになってもセミ自身分からないかもしれない。僕だって、自分の気持ちなんか、多分ほとんど分かっていないのだから。

 喜びよりも、哀しみの中で生きている。悲しいというと、どうしたの?、と言われる。本当のところ、どうしたもこうしたも無いのだ。熱い喜びよりも、冷たい水のように通底した、哀しみの川が、生の底には、すぅーっと流れている。そこに手を浸すような言葉を書きたい。普段、人間関係の中では、平坦な喜びしか感じられないから。多分、喜びよりも、冷たい流れや、たったひとりで、ふと感じる匂いみたいなものの中に、僕の個人性はある。常に。僕が僕である由縁、もしかしたら理由みたいなもの。
 セミはあんなにうるさく鳴いていても、本当は哀しく、ただ静かに生きているのではないだろうか?

 自分が死ぬなんて、どうでもよく思える。自分の損得だって、まったく大したことじゃない。僕は生きている。僕の生と死は、一本の冷たい川によって繋がっていて、「ここからが死です」という切り替えポイントなんて、無いと思う。



8月20日(日)、
 誰かと一緒にいると失われる感覚。「今」「今ここ」に、僕がいるという感覚。

 でも、誰かがいなければ忘れてしまう感覚もある。僕には大切な友人がいるけれど、僕は彼以外には冷たいかもしれない。両親とだって、出来れば顔を合わせたくない。親といればいるほど、彼らは他人なんだなあと思う。僕は友人が人を殺そうが、僕の何を盗もうが、ガス室で何万人もの捕虜を殺そうが、あまり気にしないと思う。普通に友人でいるだろうな、と思う。血の繋がりの大事さなんて、感じたことがない。
 お墓参りに行きたい人が、ふたりだけいる。ニック・ドレイクと、櫻井まゆさんのお墓には行きたい。中原中也のお墓には、何故かあまり行こうと思わない。あまりに身近すぎて、中也が死んだという感じがしないからかもしれない。それに、実は中也のお墓には、もう行ったような記憶もあるのだ。それもろくに覚えていないくらい、中也のお墓に行くのは、どちらでもいい。

 人から愛されるって、難しい。どんなに頑張っても、誰も愛してくれないかもしれないのだから。でも、愛することは出来る。単に愛すればいいのだから。
 「そのままでいい」という言葉は大抵嘘だ。愛されたいという努力を放棄したら、本当に誰ひとり愛してくれない。でも、努力しても、その方向性は大体間違っている。だったら、最初から放棄して、最初から、愛することだけに集中した方がいい。



8月21日(月)、
 ビートルズの音楽の、濡れた感じ。音楽を聴くときは、いつだってひとりぼっちだ。その個人的な感覚が、とても好き。

 時々、生きていける気がしない。一日で何度か、急に。心拍数が上がる。脈拍。稀薄な空気。
 一昨日、あと半年だけ生きようと思った。ずるずる長いこと生きてしまう可能性の方が高いと思っていたけれど、本当はあと半年も生きられるか疑問だ。どうしようもなく、くたばってしまう気がする。

 でも、生きていきたい。イギリスと、アメリカに行きたい。……でも、ころりと死に向かう可能性が、どんな瞬間にもある。ならばぐさっと死にたいとよく思う。何となくじゃなくて、死と生を強く意識しながら。



8月22日(火)、
 言葉は好き。でももうひとつ、死ぬ前にしたいこと。例えばナイフ一本で、ウサギと鹿を捌きたい。


散文(批評随筆小説等) 日記、あるべきことの哀しさ Copyright 由比良 倖 2023-08-24 04:29:19
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